このマンションの、本当の最上階にある彼の個人スタジオのドアを開けてみたが、既に電気も消されシンッと静まり返ったその部屋に、正に音の無いの世界が広がっていた。
「マスター、どこですか?」
誰もいない空間に問いかけ、彼からの返事をしばらく待ってみたが静まり返ったその部屋から返事が聞こえてくるはずもなく。
やがて諦めてドアを閉め、カイトは改めてマスターであるの捜索を再開する。
「マスター、どこ行ったんだろう……」
廊下に響くのはカイトの、不安の混じった呟きだけ。
一階に居なかったからここに居ると思ったのに、その予測はどうやら外れたようだと思うとガクリと肩を落とし、一階へと足を向けたそのときだった。
廊下の向こうで音がしたのを、カイトの耳が捉えた。
――何?
疑問に感じ、その音が鳴った方へと体を向ける。
「マスター?」
不安を押し返すようにしてカイトは言うと、シーンと静まり返ったこの家で唯一音が出せる人、それはマスターしかいない。
そう信じ、その音がしたほうへと足を向け、やがて彼は一つの扉の前に立っていた。
花雪が足を押戻し
この家には、開かずの部屋がある。
というより、数年前に鍵を無くして以来開かないと教えられたドアがあった。
マスターが気にするなと言った部屋だから、普段なら気にも留めないようなそんなドアだ。
こんな状況でもなければ恐らく、いや絶対意識にも上らなかったかもしれない。
しかし今、その部屋の扉がほんの僅かだが開いていた。
「え、ここって? でもここは……」
不思議に思ったカイトは、僅かに開いていたその扉を開けるかどうしようか迷った。
だけど、この先に彼が居るかもしれない。
そう思ってソッと扉を開け、彼を呼んだ。
「マスター、居ますか?」
しかしそこにあったのは、何もない薄暗い通路のような空間。いや、そこは正に一本の通路になっていた。
そしてそこでカイトは、今度はハッキリとその通路の先から先ほどと同じ金属が擦れるような音を聞いた。
カシャン……
「マスター?」
その先に行こうかどうしようか、カイトの中に二度目の迷いが生まれる。
何故ならここは、開けてはいけないと教えられた部屋だから。
――ど、どうしよう。ここ、確か開けちゃダメって言われた部屋だよね。どうしよう。でもマスター、探さなきゃ。でも……
ゼロとイチが体の中を交差し、戻ると進むの選択肢が目の前を通り過ぎていく。
しばらくそうやって悩んでいたが、その先からまた金属の音が響いてくる。
まるでこの先に誰かがいるかのように。
やがて顔を上げたカイトは、進むことを決定した。
「マスター、探さなきゃ」
あの部屋で彼を待つことより、探すという選択をカイトは選んでみた。
どうなるか分からない不安を抱えて。
だけども入っちゃダメだとは言われてないし、ただこの扉は開かないと、そう教えられただけだから。
そう思いなおしドアをさらに押し開けカイトは、通路の先へ足を進めていった。
近づくにつれて、聞こえてくる金属音が大きくなる。
この先に誰かがいることは間違いなさそうで、カイトの足は自然早くなっていく。
更に進むと、明るい部屋に出てカイトは驚いた。
「なに、ここ……」
初めて見る光景に声が止まる。
ウォーキングクローゼットのような壁一面の収納扉がそこに広がっていて、床にはロープと見慣れたものと見慣れない道具のようなものが散乱し置かれている。
そして視線を先に向けると金属の防柵があって、その先にはなんと照明に照らされた何メートルあるか分からない奈落の底が広がっていて……
つまり、床が無かった。
「えーっと……これ落ちたら、壊れる……よね……」
下を覗きこむ自分の声が震えているのが分かる。
だがそれは、マスターに怒られるからといったマスター関係、分類上『マスターとの信頼度』と呼ばれるカテゴリーの値が低くなる、といったものからではなく、ただ純粋にここから落下すれば破壊するという恐怖からだ。
そしてカイトは、一本のピンッと張ったロープが下に向かって落ちているのを見つけ更に体を傾け覗き込もうとしたが、足が震えて動けなかった。
適当なところに腰を下ろし、改めて部屋を見回したカイトは、ここは不思議な部屋だと思った。
日用品に混じった見慣れない道具、巻かれた長い不思議なロープ、そして時折響く金属の音と誰かが壁を蹴っているような音。
そのどれもが、今まで見たことも無い道具、聴いたことの無い初めての音。
不思議な音だと、カイトは思った。
まるで誰かが動いているような音だ。
まるで何かが……
こんなところにマスターが居るのだろうか。
不安を消すために手を伸ばし、散らかっている物に触れようとしたとき、誰かの声がして顔を上げた。
「カイト?」
その声の主は、カイトが破壊の恐怖を感じた奈落の底から顔を出しているだった。
「マ、マスター?!」
驚いて声が裏返っている。
聞きたいことは山ほどあった。
何故そんなところにいるのか、何故消えていたのか、そもそもどうして下から現われるのか、たしかそこに床はなかったはず、ect......
疑問は一気に吹き出てきたが、そのどれもが言葉にならない。
ただ驚きの表情で、床のない奈落の底から顔だけ出しているを見つめるのが精一杯だ。
そのギクシャクとした空気を、が難なく破ってみせる。
「今上がるから、チョットそこで待ってろ。動くなよ。いいな」
と、珍しく念を押して言うと彼は頭を引っ込め、何やらガチャガチャと金属音を立てたかと思うと腕を伸ばし、縁に手をついて一気に体を持ち上げ反転させ、カイトに背中を向け縁に腰掛けた。
そしてスッと後ろに体重を移動させて立ち上がり、道具を回収してカイトの前に歩いてくる。
一方、動くなよと言われたカイトはそんなの流れるような一連の動作から目を離せないでいた。
明らかに手馴れている。
「マ、マスター……」
小さく呟いた声は、それでも部屋に木霊したからの耳に入っていないはずはなかった。
しかし彼は床に散らかっていた物の中からタオルを取り、ジャージとTシャツ一枚になって黙って汗を拭いている。
そんな彼に声を掛けて良いのだろうか。カイトは今日三度目の選択に迷う。
しかし
「お前、どうしてここに?」
と、タオルを首に掛けながら先にが問いかけた。
「マ、マスターを、探していたんです」
答えるカイトは思わず緊張してしまう。
何故ならの声と顔はどこか硬くて、まるで自分がここにいることを望んでいないかのような……
「あの、ごめんなさい。僕、勝手に……」
入るなといわれた部屋に、足を踏み入れてしまったことを謝るカイト。
入ってしまったことを後悔する。入るなといわれたのに、守れなかった。マスターの言葉を破ったらどなるか……それを思うと自然と体が震えてくる。
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」
謝るカイトにが言う。
「いや、いい。探しにきたんだろ?」
不安と恐怖で下を向くカイトに、が静かに言う。
「……ハイ」
「そうか。ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
受け答えをしながらもカイトのCPUは分析を開始しており、今のマスターの声は軽く緊張している、と結果を出した。
いつもの声ではないと告げてくる。それがカイトを更に恐縮させていく。
「マ……マスター」
「ん?」
「何か、あったんですか?」
思い切って聞いてみた。
「いや、何も」
答えはそれだけ。
やがて張り詰めた空気が二人の間を覆い、カイトはなんとかそれから逃れたくて必死に言葉を探してみる。
「何か、あるんですか?」
それは、デフォルト文の中にあった。
自分たちが消される未来を前提に作られた、あまり使いたくないと思える文章。
ソレに対しては「さぁな」と言って否定しない。ただ、声が硬い。
この、ボーカロイドにとって『あまり使いたくない言葉』を使うのは、実はカイトは一度や二度ではない。
この人に拾われる前の記録。
自分を捨てた前のマスターに対し、自分が何か失敗するたび、言われたとおりに出来なかったときなどに使ってきた言葉。
前のマスターは、自分を消すことを躊躇わない人だった。
その度にイヤだと言って懇願してきた。
この言葉は、今はもうメモリの底にしか存在しないその人に幾度となく問いかけた記憶を思い起こさせる。
――あぁそうだ。言うとおりに出来なかったからお前を消すんだ。それ以外に何がある?
イヤダ……! イヤ、です。マスター
「どうして……」
「カイト?」
そんな、下を向いたまま動かない自分の様子を不思議そうに見るを見てカイトは、自分が涙を流していることを知った。
「あれ、僕、泣いて……?」
「どうした」
目のセンサーの焦点が合わない。
不思議そうに視線を僅かに上げ、自分を覗きこむの顔が歪んで見える。
だけど回路は涙など流していない、と出ている。
混乱するカイトは、の顔をまともに見ることが出来ずますます下を向き
「ご……ごめんなさい」
と消え入りそうな声でに謝った。
「カイト?」
問いかけるの声は、さっきとは打って変わって優しかった。
それに答えなきゃと思えば思うほど、言葉が絡まって出てこない。
やっと搾り出した言葉は、小さく首を振って消え入りそうな声で答えた
「ヤダ……」
という言葉だった。
アトガキ
2011/02/07
管理人 芥屋 芥