最近のマスターの帰りは、遅い。
 とても遅い。
 しかもその遅く帰ってくるというのは、急に始まったことのようにカイトは感じた。
 そしてその帰りが遅くなったのと時を同じくして、どんなに忙しくても一日一人、最低でも一時間は取ってくれていた自分たちボーカロイドとの交流時間も、無くなった。
 むしろマスターからボーカロイドとの関わりを少しずつ失わせているような、そんな感覚を受ける。
 だからだろうか。
 昼間あれだけ明るかったマスターの家には、曇天が立ち込めている。
 外は、心があるなら『洗われるような秋晴れ』と表現できるほどの快晴なのだけれども、家の中の雰囲気は、暗い。
「マスター、最近忙しいのかな……」
 ミクが、今日これで何回目だろうかの同じ台詞をポツリと呟く。
――こんなこと、今まで無かったのに。
 そんな不満が、隠れた声に現れているように、カイトは感じた。
花雪が足を押戻し
「マスター」
 マスターのベッドに横になって、思い切って机に向かい仕事をしているその背中に問いかける。
 返事が、あった。
「何」
 短く素っ気無い返事が。
 ここのところ、問いかけすらできない雰囲気がずっと続いていたから、それだけでもカイトは嬉しく思った。
「マスターは、どうして僕たちとの時間を、その……」
 止めてしまったのですか。
 その言葉が電子に溶けて消えていくのを、カイトは自覚する。
 何故。どうして。
 その疑問が電気の向こうで火種となっているのを、カイトは自覚する。
 言いよどんでいると、マスターが言葉を引き継いだ。
「取らなくなったのかって?」
 それに「はい」と答えるのを、怖いと思った。だけれども、彼は気づくことなく話を続けている。
 答えを知るのが、怖い。
「悪いとは思ってるよ。でもごめん。しばらくは取れない」
 あぁ。やっぱり。
「仕事が、忙しいのですか?」
「そう」
 相変わらず素っ気無い返事に、
『これ以上話しかけるな』
 そう言われたような気がした。



 マスターの仕事に立ち入ることは、僕等には許されない。
 何をしているのかも、聞きたくても聞けない。
 何よりも、マスターの雰囲気が全てを物語っていた。
『話しかけるな』
 そんな緊張状態が二週間と五日続いて、ようやく仕事から解放されたのか、マスターの雰囲気が緊張前に少しだけ戻ってきた頃だった。
「マスター」
「何」
 以前に話しかけたときより数段声が柔らかいのを、以前の音声と比較して確認したカイトは、そのまま言葉を続けようと思った。
「あの……」
 だが上手く言葉が出てこない。
 どうしよう。
 ベッドの中でどう続きを言おうか迷っていると、マスターが椅子を動かしてこっちを見てきた。
 デスクライトの逆光で表情までは見えなかったけれど、その表情は少し前と違って大分穏やかになっているはずだと、カイトは思った。
 やがて、ギシッと音がしてマスターが立ち上がったのが分かる。
 ほんの二・三日前までは考えられないことだった。
 再びギシッと、今度はベッドが軋む音がしたかと思うと、彼は手のひらをカイトの頭に触れて、言った。
「何。溜まってんの?」
 アケスケな言葉に、カイトの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ちッチガイマス! ただ僕は、マスターが忙しそうだったから、話しかけられなくて、皆、その、悲しそうだったし……」
 ガバッと布団から顔を出したは良いものの、間近にあったの顔にカイトは、言葉を紡ぐにつれ声を小さくしていく。
 その様子を見て、がクスリと笑って言った。
「だから、ご免って言ったろ」
「分かってますよ」
 再び掛け布団をズリ上げ、顔を隠してカイトが答える。
 そうだ。
 この人は忙しさが一段落した頃、僕たちを集めて謝ったのだ。
 ここのところ構ってやれなくてすまないって。
 分かってますよ。
 分かってますけど……
「何。お前、拗ねてんの?」
「拗ねてません」
「嘘こけ」
「嘘じゃないです」
 あなたに嘘はつけない。分かってくれてると思っていたのに。ちょっとショックだ。
 あぁ、でも本気じゃないのも、分かります。
 だって顔が笑ってる。
 マスターの笑った顔を見たのは、本当に久しぶりです。 
「ま、いいや。んじゃ、おやすみ」
 話を切り上げて立ち上がるの後ろから、カイトが声を掛けた。
「マスター」
「ん?」
 ギシリと再び椅子に座り机に向かおうとしているに、言う。
「本当に、大丈夫なんですか?」
 この言葉を聞いた瞬間、彼が驚いたように、カイトには見えた。





「どうだった?」
 自分の録音が終わり、階段下で待っていたリンが二階の部屋から降りてきた、たった今録音が終わったばかりのミクに聞く。
「全然変わんないよ? むしろ甘くなってる気がするんだけどなぁ。さっきだってリクエストした曲、アドリブ付きで演奏してくれたし。あ、そうだ。はいレン。渡してって言われたデータ」
 と、二階で起こったことを簡単にまとめて話し、貰ってきたデータを次に歌うレンに渡す。
 受け取ったレンは、黒のカーゴパンツのポケットにそれを入れて、その中身を取り出す作業に入る。
 もちろん『ボーカロイド』として歌うときは、デフォルトの服に替えなければ気が引き締まらないのだが、今彼等が着ている服は部屋着用としてダウンロードしたもので、思い思いのリラックスした服装のままだ。
 そして、録音中は防音の効いた扉の向こうに追い出され、ミクと入れ違いに部屋に入ったカイトは下で話される兄弟たちの会話に入れなかった。
 何故なら彼は上で作業をしているマスターの手伝いで、さっきからずっと二階に居っぱなしだったから。
 そしてリンがミクに聞いたこと。
 それは、自分たちのマスターであるのことだ。
 最初に皆に疑問を呈したのはメイコだった。
『マスターの様子、最近変じゃない?』
 と。
 それ以来、の家にいるボーカロイド達は何かと彼の様子を気に掛けているのだが、特に変わった様子は感じられなかった。
「う〜ん。私には、何か悩んでるように見えるけどなぁ」
 とメイコが三人掛けのソファに背中を預けながら言った。
「カイ兄ぃは何か掴んでるのかなぁ」
 一人用ソファに座り、中身の解析が終わったのか顔を上げて時折鋭い指摘をするレンだが、それを本気にするものは誰もいない。
「まさかぁ。ありえないよ」
 と、リンが即座に否定して、それにミクが床に座りながら同調する。
「うん。カイト兄さんが何か掴んでるなんて、絶対無い!」
 うんうんと頷きながら言うミクに、リンが更に言う。
「ありえない!」
 と。
 そのとき上からカイトの
「レーン、上がってきていいって!」
 という間の抜けた声に、ミクとリンが「あれじゃ、絶対何にも分かってない!」と力説した。




 シールドを持ちながらカイトが言う。
「マスター」
 アンプの上に座ってカイトからシールドを受け取ると、ギターとアンプの両方に差し込みながらが答えた。
「なに?」
「どうして、こんなことを?」
 急に、一人一人を個別に録音してそれをミックスしていく、だなんて。
「時間が空いたからね」
「それだけじゃないでしょう?」
 分かってる。
 この人は、何か悩んでる。
 でも、自分では彼の悩みを聞き出すことができない。
 それをもどかしくて思いながらも、それでもカイトは機材の調整が終わったの指示に従った。
「次はレンを呼んで、カイト」
 そう言われれば、そうしなくてはいけないのだ。
 何故なら、自分はボーカロイドなのだから。
――どうして僕は『人』じゃないんだろう。
 最近、気が付けばカイトはそう考えるようになっている。
 人だったら、あの人と一緒に生きていけるのに、って。
 人だったら、あの人を……
 どうして? どうして? どうして?
 いくら考えても答えなんて出ない。
 出ない答えで、足が絡め取られていく。
 ゼロのループ。
 エラー、エラー、エラー……
「カイト?」
 自分を呼びかけてきたメイコの声に、カイトは現実に引き戻される。
「どうしたの。不具合でもあるの?」
 不思議そうな目でメイコがカイトと見ている。
 不振がられてはならない。それ以前に、プログラムが勝手に笑顔を作る。
「何でもないよ。あ、レン終わったんだ」
「そ。あんた、マスターの手伝いでここにいるんでしょ? ボーッとして。何やってんのよ馬鹿」
 メイコに冗談めかしながらも言われてしまい、カイトは肩をがっくりと落とした。
 いつの間に終わっていたのだろう。
 ということは、四回目になるメイコの録音の段取り、全てマスターがやったことになるんだけど。
 あぁぁぁぁ! どうしよう! 僕、きっとマスターの言うこと無視してたかも!
 何故なら下で準備している兄弟たちを、ここに呼んだりするのがカイトの役目になっていたから。
 慌てすぎて、青くなったり赤くなったりしているカイトをとメイコが不思議そうな顔で見ている。
「マ、マスタァ〜〜」
 発した声は、完全に裏返っていた。
 それを聞いて二人があきれ返った後、一人が静かに肩を揺らして笑っているのがわかる。
 メイコにいたっては額に手をあて、頭を左右に振る仕草をしている。つまり、呆れて果てているのだ。
「お、まえ、なんちゅう声出してんだ」
「マ、マスタァ〜」
 今度は泣き声だ。
 いや、泣きそうな声で彼を呼ぶ。
「心配すんな大丈夫だから。だからこれ以上笑わせんな。手が震えてギターが弾けん」
 と言いながらギターを抱えるが、それでも収まらない笑いを必死に抑えながらは譜面と向きあい、第一音を弾いた。
 





「じゃラスト、カイトな」
 そう言われ、メイコから渡された音源を元に、カイトは入力された音を発していく。
 二人きりの時間は、あっという間に過ぎてしまう。
 どうしてこう、楽しいことって過ぎるのが早いんでしょう。
 そう思って片づけをして下に降りると、既に歌い終わっていた兄弟がそれぞれ好きなことをやっていて、マスターが現れるとすぐに今日のことについての質問が飛んだ。
 お互い、何を歌ったのか、何をしたのかは知らされていない。
 そのあたり、は徹底的だった。
 プロテクトがそれぞれに施され、今日のことは情報共有ができないようにされている。
 それぞれが何を歌ったのかは、その全てを知っているのはマスターだけ、ということ。
 そして、あとの細かい調整はマスターがするということで、その日は終わった。
 ご褒美にそれぞれ好きなものを貰って。
 でも、おかしいと思う。
 どこかが変だ、とソファに座ってアイスを食べながらカイトは、自分の晩御飯を食べているの横顔を見る。
 彼は、向かいに座るリンと話していて、時折笑顔さえ見せていた。
 ミクとレンは、無料のゲームに夢中だった。
 メイコは一人台所に立って冷蔵庫を開け、どれにしようかとストックしておいた酒、といってもこの家でお酒を飲むのは主たるとメイコくらいなものだったけれど、に手を伸ばしている。
 何ら変わらない雰囲気。
 でも、どこか変な感じを。カイトは受けた。
 何かが変。
 でも、何が変?
 分からないまま、やがてご飯後のまったりとした時間はあっという間に過ぎて、この日はお開きとなった。
 奇妙な違和感を感じながら、カイトはの部屋のドアを開ける。
「マスター。一体、何があったんですか」
 誰もいない部屋に、カイトの独り言が落ちていく。
 彼はまだリビングにいて、後片付けとかをしていると思った。
 自分たちだけが、先に部屋に戻されたのだ。
 こんなことは偶にあった。というか、あの人は人間だから、あって当然なのだけれど。
 それでも。
 まだマスターはリビングにいるだろうか。
 そんな期待を持って、カイトはの部屋を出た。



「マスター、片付けなら手伝いましょうか?」
 リビングに戻ったカイトが見た景色には、人が誰も居なかった。
 無人のリビング。
 お風呂かな?
 そう思ったカイトは、そちらに足を向けるがそこは電気も付けられていなければ、水音もしない。
 何より人の気配がしない。トイレにも。台所にも。他の使っていない部屋にも。
 何処行ったんだろう。
 そう思って、リビングの中央外れたところにある二階に通じる螺旋階段に視線を向けた。
 一階にいないということは、もしかして二階にいるの?
 でも、どうして?
 そう思いながら階段を上がっていく。
 きっと上にある防音の部屋にでもいるのだろう。
 そう思っていた。このときまでは。
 まだ、楽観できたんだ。
 でも、を取り巻いていた状況の説明ができるボーカロイドを、カイトは知らない。
 恐らく、ナニモノも説明できないだろうと、カイトは思った。
アトガキ
VOCALOID KAITO夢
花雪02 主にカイト視点
2010/11/29
管理人 芥屋 芥