「はーい」  そんな明るい女の声が聞こえたのは、夜遅くに帰ってきたある日のことだった。  っていうかまぁ、この駐車場に車を停める前から彼女がいることは分かっていた訳だが。  それにしても、何だってこんなところに彼女が居るんだ?  そう思いつつ、車から降りて男は聞いた。 「一体何の用。って、お前キャスパーの護衛はどうした?」  この女の所属部隊は、今はキャスパーだったはずだ。 「あらサイレント。つれないのね。キャスパーなら今ホテルに居るわ」  そう答えた彼女の声に、笑いの声音があったのは間違いない。  多分この状況を楽しんでいるのだろう。  それとも、最初から自分がこの駐車場に居ることを、男が分かっていることが嬉しいのか。  気配の読み合いが心底楽しいらしい彼女に対して、男は少しイヤそうに咎めて自分の名前を言う。 「昔の呼び名使わないでよ。今は周水千秋っていう名前なの」 「あら、ごめんなさい」  そんな男の言葉に悪びれた様子はなく、おまけに声に笑いを含ませた笑顔で駐車場の光りの下に出てきた彼女が身に付けていたのは、いつもキャスパーを護衛するときに身に付けている戦闘服ではなく、いたってシンプルなシャツにジーンズ姿だった。  その割りには…… 「チェキ。何それ。誘ってんの?」  胸元が際どく開けられていたけれど。 「旦那に叱られない?」 「アハッ、そんなこと気にしてるの? お姉さん嬉しいわ」  嬉しそうに笑う彼女の声が駐車場に響く。  お前なぁ……  呆れたように眉をひそめ、ため息を吐く千秋の横に立って彼の腕を取ると、自分の胸に押し付けるようにしてチェキータが言う。 「大丈夫よ。相手は貴方なんだもの。それより今日はそんなことをしに来たわけじゃないの。この前預けた子供達の様子、見にきただけだから」  なんだか会話がかみ合ってないような気がしたが、それでも 「俺は君に手を出さないって? まぁいいや。信頼されてるって受け取っておくよ。それよりも、彼らの様子見にきたのならここには居ないよ」  そう言って腕を振り払おうとした千秋に「ダーメ」と笑いながら抵抗した彼女に根負けして、千秋はそのままチェキータと共に出入り口の方へと歩いていく。  わかってる。  彼女はここに情報を取りに来ただけで、別に預けたあの三人の子どもに本当に会うためじゃない、ってことくらい。  玄関に入って電気をつけると、リビングのソファに彼女が座らず、そのまま勝手知ったる何とやらで冷蔵庫を開けるとそのままペットボトルの水を取り出して 「あら、いいのがあるじゃない。もらっていい?」  と確認を取るが千秋の了解を得る間もなく勝手に開けて飲み、そのままソファにドサリと座って書類の提出を求めた。  そんな彼女の様子を、リビングの出入り口付近で黙って見ていた千秋がここでもまた溜息を一つ吐くと、持っていたカバンを床に置き、彼女が望むファイルはどこにあったっけと考えながら、ソファに座る……いや、寝転がっているチェキータを横目で見つつ、さっきチェキータが取った行動とほぼ同じ、今度はペットボトルではなくポットに入れた自分用の水を取り出して飲んで一息ついてから、あぁ確か……と床に置いたバックからファイルを取り出して彼女に見せた。 「ほれ、経過」  そう言って千秋がテーブルに置いたファイルに手を伸ばしたチェキータが、少し体を動かしてゴロリ天井を見上げる形に寝転がったままソファの上でファイルを検分していく。  しばらく紙の鳴る音だけが響き、やがて 「うん。良好良好。さっすが日本よねー」  と言った。  何が流石なのかは知らないが、何が良好なのかは一目瞭然だった。  引き取った彼らの栄養状態のこと。そして心のケアのこと。 「心神共に異常なし。これでキャスパーの契約は果たされたっと」  ゴロンと三人掛け用ソファーに寝転がっていたチェキータは、その書類を見ながらとても嬉しそうな笑顔で言う。  その際、キワドク開いたシャツの襟から中のものが見えそうだったけれど、それに頓着せずに千秋が言った。 「それだけなら、わざわざここに来ることもなかったのに……」  電話やメールなんかでも良かったのにと、言葉の裏に滲ませて。  またこの用件以外、本当に何もないのかの確認を込めて。  その言葉の意図を読み取ったのか、チェキータの笑顔が更に深くなって 「ま、それもそうなんだけど。あの小熊の子を見てたらお姉さん、ちょっとあんたに会いたくなっちゃって。だって似てるんだもん。あの子とあんた」  と、チェキータが書類をテーブルに無造作に置くと、目の前に座る千秋を真っ直ぐに見て言った。 「興味、湧いた?」  この質問で千秋は、彼女がここに来たもう一つの理由はどうやら彼女の個人的な好奇心らしいと判断する。 「湧かないよ。大体湧いてどうするのさ」 「アハッ。やっぱり来た甲斐があったわー。シュウったら興味津々なんだから」  興味がないといった声音と雰囲気で答えた千秋に対して、ソファの上で何が面白いのかチェキータが笑う。  それを呆れた様子で見やって千秋が言った。 「だから、湧いてないってば。俺がキャスパーから聞いてることは、元少年兵だったことくらいでそれ以上のことは知らないよ」  そう。確かにそれ以上のことは聞いていない。  ま、あのキャスパーが彼の腕を条件に子ども三人の保護を契約したくらいだから、相当なものだっていうは分かるが。  と、不機嫌そうに水を飲む千秋にチェキータがさっきまでその顔にあった笑顔を引っ込めて言う。 「あらら残念。元少年兵で、山岳の部隊出身。たった一人で私たちが壊滅するはずだったある基地を内側から壊滅させる程の戦力……誰かさんと似てない?」  挑むように千秋を見るチェキータの顔は、まるで……  だが、ここで呑まれたらきっと戻れなくなる。  そう判断して千秋は殊更素っ気無く答えた。 「興味ないね」  と。 「意外と冷静なんだ。残念。本当に残念」  その言葉通りの悲しい顔をしてチェキータがソファから立ち上がって言うと、そのまま歩いて千秋が座るソファの後ろに立って、そのまま千秋の顔に腕を回して上向かせると 「興味が湧いたら、ココちゃんに連絡しろってキャスパーからの伝言預かってきたんだけど……な。残念だわ」  そう言うと、スッと顔を落としてきて……  一瞬後、千秋の怒鳴る声が部屋に響いた。 「チェキータ!!」 「アハハ。これまた意外と初心なのね。お姉さん安心したわ」  既に千秋が座るソファの後ろからリビングの出入り口付近に移動していた彼女が、やはり笑顔全開で笑って言う。 「初……心って、お前……は、結婚してるだろうが!」  あまりのことに動揺しながらも、ソファの肘掛に手をかけて立ち上がろうとしている千秋を牽制するように彼女が言った。 「あら、唇を避けてあげたのだから少なくとも愛情じゃないわ。分かってるんでしょう?」  そんな彼女の言葉に千秋が一瞬言いよどんだその瞬間を付いて 「私の用件はそれだけだから。じゃね〜」  と、彼女はヒラヒラと手を動かしながら言いつつ玄関から去っていった。 な、何だったんだ一体……  まるで台風が去ったような、まるで彼女自身が台風だったような、そんな心労を味わいながら千秋は立ち上がりかけていたソファに再度腰を落とし、天井を見やって一息大きく息を吐く。 「俺に似てる……か……ま、関係ないさ」  キャスパーだけではなく、チェキータまでも興味を持つほどの子供。  そして、それに合わせて自分に接触を持ってくるってことは、間違いない。  虚勢は確実に見破られてる。  だから、揺さぶるために彼女をここに寄越した。  額のキスがその証か。  戻って来いと明らかに誘われている。  だがそれでも今は、あの頃とは違う、この静かな生活が気に入ってるって言ったら、やっぱオカシイのかなぁ……