「何をしている」
鋭い声が掛ると同時に彼の天地はひっくり返った。
一瞬何が起こったのかわからない彼は、襲ってきた体の痛みと混乱の中で、自分の視線が床に近いところにあると認識したかと思うと同時に、片方の腕が通常とは逆の方向へと捻じ曲げられているのを知った。
「ッイタ……イタイイタイって……痛いってば!」
思わず口から出た日本語にハッとなり、慌てて英語で言おうとしたが時既に遅し。
「あ、んた……日本人?」
のしかかっている声の主は、とても驚いた様子でそんなことを言ってきた。がしかし、力は未だ緩めてくれない。
「そういう、君は? っと、その前に力を緩めてくれると嬉しいんだけど。あ、あとソコどいてくれないか……重い」
と、腰の辺りに圧し掛かっている青年に向けて、はそう懇願した。
その中にだけは座れない
「フ、ハッハッハッハ……」
ブッカー少佐が話を聞いた瞬間、堪え切れないといった様子で笑い出す。
ここは彼のオフィスの中で、彼は自分が呼び出した二人を前にして笑っている。
それも思いっきり。
「笑い事じゃないですよ少佐。パイロットに連絡もいってないんじゃ、俺がここで出来ることなんて何一つ無くなっちまうじゃないですか」
その二人とは、一人は少佐に食って掛かり、一人は一歩後ろに下がって笑う上司とそれに食って掛かるもう一人の男を見つめている。
そんな二人だ。
静と動。
そして、姿形も正に白と黒、というべきなのか。
一歩下がったところで静かにしている男の髪の色は黒であり、食って掛かっている男の方はシルバーに限りなく近いプラチナ・ブロンドの見事な金髪をしている。
だがそんな彼の外見とは裏腹に、先ほどがこの男が発した言葉は明らかに日本語だった。
そのことを、一歩下がって二人を見ていた一人はずっと考えていた。
「わかったわかった。そう言えばまだ紹介が済んでなかったな。……深井少尉。こちら。一応整備員だ。、こちら『雪風』のパイロットの深井零少尉」
少佐がお互いを紹介し、やがて先に手を差し出したのは、一息と共に肩の力を抜いたの方だった。
「だ。よろしく少尉」
と、手を差し出された零は、さっきの自分の行動が頭をよぎって一瞬迷ったが、やがてその手を握り返し、短めに言葉を返す。
「深井零です。よろしく」
そして手を放したは、今度は少佐の方を向いて
「で、少佐。その『一応』って付けて紹介するのやめてくれませんかね。俺は『一応』じゃなくてレッキとした整備員なんで」
「何を言う。その『レッキとした整備員』に雪風のテストパイロットが務まる訳ないだろう?」
と、机の上の書類に目を通しながら少佐が、どことなく気安い様子で答える。
「あのね少佐。俺が乗ったのは雪風じゃなくて、あの型のプロトタイプ。あの時から随分バージョンアップしてるし、エンジンもシステムも何もかもが全く違う旧世代機だったって何度言えば分かってくれますかね」
やはり既知の間柄なのだろうか。
零の存在をすっかり忘れて加熱する二人の言葉に、零は引っ掛かった。
「雪風の、テストパイロット?」
この時初めて、二人は言ってはいけないことを言ってしまったと理解する。
特にブッカーは、明らかにしまったと後悔しているような表情を見せた。
普段から気をつけていたはずなのに、彼とは久しぶりに会ったからついうっかり口を滑らせてしまったのだ。
「「あ……」」
二人同時に声を発し、ブッカーが零の顔を見てバツが悪そうに視線を逸らす。
「少佐。どういう……」
普段他人には無関心なこの少尉も、たった一つのことに関してだけはそうそうに無関心ではいられないことを知っているブッカーは、自分から先に降参することにした。
彼がこだわるたった一つのこと、雪風に関係することでこの少尉が引くとは到底思えなかったらだ。
「あ、あぁ。言って、いいのか?」
零の問いかけに、ブッカーはの方に確認を取った。
「まぁ、別に隠すようなことじゃないですし。どうせ一通りファイルは通るでしょうから、いいんじゃないですかね」
若干声を硬くしながらも、がまるで人事のような了承を出す。
やがて整備班から再度呼び出されたが部屋を出て行った後に残された二人の間には、緊張がほんの少しだけ漂っていた。
いくら本人から了解を得たといったとしても、あんなことをそう易々と言えるようなものではない。
だが話さなければ、零は納得しないだろうともブッカーは思う。
それに、整備員としてここに来ているのだから話しても構わないだろう。
そう判断して、少佐は話を切り出した。
「ファ……ッ!」
ゴキゴキゴキッと凝り固まっている首を回し、腕をブンブン振って縮こまった身体を引き伸ばし、屈伸して身体を動かしているそんなを見るともなしに見つめながら、零は少佐の話を思い出していた。
元FAFの大尉。
雪風が雪風になる以前の機体のテストパイロット。
そして起こった事故。
その所為で彼は、戦闘機に乗ることを辞めたこと。
操作上のミスだと言われているが、本当のところは誰もよく分かっていないということ。
『何度も調査はしたらしい。だが、どうやっても原因は分からなかったそうだ』
とは少佐の言葉だ。
ただ、後ろに乗っていた人間がまるで何かに撃たれたかのように体中穴だらけになっていた、らしいということ。
そしてには、傷一つなかったという事実。
密室のコックピットの中で一体何があったのか、それを知っているのはただ一人。
これが何を意味するのか、今の零には分からなかった。
それに、それら過去を差し引いて見ても、彼の仕事振りは見事なものだという事実。
元々戦闘機パイロットだった所為もあるのだろうか、一目見聞きしただけで他の整備員よりも少し深いところの異常が分かるらしく、彼の整備判断はかなり的確だということ。
整備員としてここに居るのだから、それが仕事ということで、当然といえば当然か。
そう思って、雪風を彼らに預けて零は、静かにハンガーから出て行った。
「少佐。俺なんかが雪風に触って本当に良かったんですかね」
酒を飲みながら、誰もいないカウンターの向うに向けてが問う。
「おいおいおい。ここには誰も居ないんだから敬語はやめてくれよ」
と、ブッカーが作りかけのブーメランに手を伸ばしながらの問いかけに答える。
「相変わらずブーメラン作成が好きなんだな。ブッカー」
と、許可を得たの言葉から敬語が消える。
「あぁ。だから特殊戦の名前『ブーメラン戦隊』ってのか。ブーメランを正式にしちまうとは、よっぽどの『物好き』だよ。お前は」
答えが返ってこないと分かっていてもの言葉は止まらず、やがて自分の言葉にクスリと笑うと、誰もいないカウンターテーブルに上体を倒してさらに呟くように言う。
頬が火照っているからか。天板の冷たさが心地いい。
「FFR-31MRスーパーシルフ……か。嫌な思い出しかないな」
「まぁ、だろうな」
少し離れたところにあるソファで、無心にブーメランを作っていたと思っていたブッカーがその手を止め、初めての呟きに答えた。
そして次に呟かれた言葉は、ブッカーの耳に届くことは無かった。
「彼は、俺と同じだ」
悲しい目をして何かを呟いたに、ブッカーが怪訝の顔を向けたとき
「もうこれ以上、彼をあれに乗せるな」
と、強い口調で傲慢に言うに、ブッカーの表情が一瞬で強張る。
「……分かっている」
答えるブッカーの声が硬い。
「分かってない」
「分かっている」
少し声を荒げて、立ち上がりかけた彼を牽制するようにが言った。
「いいや、分かってない。これ以上彼を乗せつづけると、アレに囚われるって言ってるんだ」
その一言は、彼の勢いを殺ぐのに十分な一言だったらしい。
「……その件に関しては、もう……遅い」
彼が認めたことで、今度はの方が言葉に詰る。
「……そうか」
しばらく沈黙が続き、先にそれを破ったのはだった。
「じゃぁ、俺帰るわ。明日も出るんだろ?」
立ち上がりながら、再びブーメラン作成に戻っていたブッカーに声をかけた。
「あぁ」
「ブッカー。今のタイプは随分進んでいる。俺の時みたいには、ならないよ」
と、ドアノブに手をかけながらそう言うと、はその店から出て行った。
そのあとにポツリと呟かれたブッカーの言葉を聞く者は、やはり誰もいなかった。
「……だと、いいけどな」
「いつまで見てるんだ?」
任務から帰ってきて、整備が終わってもまだ『雪風』を見つづけている零にが声をかける。
「いつまででも、かな」
答えようと一瞬迷った零だが、口は彼の意思に反して自然と答えを返していた。
「雪風とは、長いのか?」
零の後ろに背を向けて立ち、作業台の上で作業をしながらがそう聞いてきたから
「あぁ」
と、答えると
「そか」
と、関心がない風にが答えるその背中を、零は少しだけ振り返った。
ここ数回の彼の整備で、分かったことがいくつかある。
それは、は整備中に絶対と言っていいほど自分からコックピットには座らないということだ。
それは彼が関わる全ての機体に共通する事実だったが、その意味は?
彼の過去の事故と、何か関係でもあるのだろうか?
それとも、他に理由が?
「あの、さん」
思い切って聞いてみた。
他人に興味など持たなかったのに、どうしてこうも気になるのだろうと零は自分で自分を不思議に思う。
だが、自分にとって雪風は全てだ。
それ以外にない。
気になるのはそれが、彼が『雪風』以前のテストパイロットだったからなのかもしれないと、思うことにした。
「なに?」
腰を上げて振り返ったと、視線が合った。
「どうして整備の間、シートに座らないんですか?」
その言葉を聞いたの表情は、とても驚いた顔をしていた。
アトガキ