ゆっくりとベンチへと体が下ろされる。
それにしても、コイツ……
そう思ったけれど、口では違うことが滑りでた。
「これくらい平気だ」
それに、こんなのはいつも通りしその度に独りで耐えてきたから今回も平気だ。
これは強がりでも何でもなく、本当にいつもと何ら変わらない。違うのは、今回の相手が見ず知らずの奴だったっていうだけの話で、だから、平気だ。
それに、独りのところを狙われるっていうのはルール違反でも何でも無いし。最良の的って言ってしまえば元も子もないんだけど、実際そうだから別にそれはどうでもいい。
だけどはそんなの言葉に頓着せず「分かった分かった」と答えて軽くいなすとポケットからハンカチを取り出して
「右手、見せて」
と言った。
「……なんで」
どうして分かったのだろう。どうして一番外見から分かりにくくて見えづらい、それでいて一番痛い箇所が分かった?
腕や顔に残る傷跡よりも、何故この男は右手のピンヒールで踏まれたところが一番の重傷だと分かったのか。
疑問で頭が一杯で、反応しないにが再度言ってきた。
「何でもいいから、右手を見せろって言ってんの。聞こえなかった?」
一瞬、冷たい風が辺りに流れたのが分かる。というよりも、何か心の底を掴まれたようなそんな冷たい声音がからもれての体がビクリと震えたが、それも本当に一瞬のことで次の瞬間には既にはの右手を持ち上げていて、彼はその手の状態を一目見て、告げた。
「これ、骨イッテるかもね」
途端、痛みが増大されたような感覚がを襲ってきて彼は焦った。
――領域も何も展開してない状況で、どうして?!
「自覚したら痛みが倍増した? 大丈夫だよ。それが普通の反応だから」
とまるで自覚することが痛みを誘っているようなことを一方的に言うと、そのまま水道のところへと足を向けてハンカチを取り出して濡らし、戻ってきたと思ったら今度はしゃがみ込んで傷を広げないようにゆっくりと濡らしたハンカチを巻いていくその様子を、ただ黙っては見ている。
疼く右手が、水に濡れたハンカチのお陰で少しだけ痛みが引いた気がしてホッとすると同時にの、満月に近い月明りの下。夜の闇が強くもちゃんと手当てが出来るそのその手際の良さには少しだけ関心する。
上手いな。
そう思ったのもつかの間が顔を上げて
「あくまでも応急処置だから、この後必ず病院に行くこと。感染症を併発すると厄介だから。いいね?」
と初めて見るだろう怒ったときとは違う真剣な表情で言ってきたから、思わずは頷いてしまった。
それにこの男なら、この傷だけは言語戦闘で負った傷じゃないってことが分かったのだろうと見当をつける。
何故そう思ったのかはわからない。わからないけど、何となく、そう思ったんだ。
「分かった」
そんなの様子に一瞬視線が優しくなったが、
「で、一体何があったか話してくれる?」
と少し気になっているのだろう様子で聞いたがは質問には答えず、に手当てしてもらった右手をジッと見つめて再度尋ねた。
「どうして、を連れて来たんですか」
「俺の質問に答えるのが先。それにその質問にはもう俺は答えてる」
の返答に半ば呆れた声音で返しつつ立ち上がりながら答えたは、少し離れた二人を視界に捉えていて自分を見ては居なかったけれど、は顔を上げる気にはなれなかったからそのまま地面へと視線を移して、がさっき出した答えの意味を考えた。
自分だと分かったから連れて来たと彼は答えた。そしてそれは、あのアパートを見ていた自分の前に現れ挑発してきた跡部と名乗った男が『何故』自分を襲ったのかという答えにもなっていた。
何故ならの兄だという跡部と名乗った男の言葉が本当ならば、奴の戦闘前の言葉にも合点がいく。
「アイツ、最初から知ってたのか」
電信柱の影で、身を潜めるようにしてその部屋の明かりをじっと見てる。
一見すると、まるでストーカーか何かのようだけれども自分の姿は普通の人には認識できないようにしてあるはずだった。
後ろから、聞きなれない声が掛けられるまでは。
「テメェか」
「?」
振り返ったその街灯の薄闇の向こうに立っていたのは、初めて聞いた大人の男の声とその影だった。
この場合の大人とは耳がないことを指しており、それは決して年上を指してはいない言葉だったけれど。
それにしても、この男のふてぶてしさは何なのだろう。
と、少しイヤ感じを持つ程度には目の前の薄闇の中に立つ男の言葉に僅かに怪訝な表情を作ったが、男は気付かない。
「に付きまとってるっていうのはお前かって聞いたんだ」
「だとしたら何だ」
驚いた。どうして自分が見ていたのが今名前の挙がった彼だと分かったのか。
この男、一体何者だ。
と、ここで初めては男に対して警戒の念を抱いたが、男はそんなことはお構いなしに話を進めた。
「奴から手を引け。お前じゃ手に負えない」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ。アイツはお前ごときが手に負える人間じゃねぇ」
その口調は、説得というよりもどちらかというと命令を含んでいて、は迷わず反発する。
「……んなことイキナリ言われてもさ。ふざけるなとしか返す言葉がねぇよ」
「ふざけてなんかいねぇよ。これは長年アイツを見てきた人間からの至極真っ当な忠告だぜ」
男の言葉が、の中で引っ掛かった。長年? 長年って一体どういうことだ。そんな人間が居ることなんて、資料には何も書かれていなかったぞ?
「長年って、お前一体何者だ」
そう問い掛けたに、薄闇の中から街灯が照らし出すところへと足を進めた男は不敵かく不遜な笑顔を浮かべ、自信たっぷりに
「さぁな。俺が何者か知りたければ黙って付いて来い。そしたら教えてやるよ」
結果は惨敗。
とは言え実際に戦ったのは男、跡部とではなくあらかじめここで待っていた奴の命令を受けた女の方で、その女は戦闘が終ると用事は終わりとばかりに跡部に帰宅を願い出た。
そしてその去り際に履いていたピンヒールの先で右手を踏みつけてきて、その痛みに耐えているところにお前等が来たと、一通りの概要をに告げると彼は満足した様子で
「なるほど」
と言って、少し離れたところで未だに言い争っている二人に視線を向け直し、釣られて>もそちらに顔を向けて思った。
それにしても、はどうして怒っているのか。
これがには見当がつかない。
何故?
と、ベンチに座ったまま不思議に思う。
彼は、この状況を見ると何の躊躇いもなく跡部に突っ掛かっていったから。
そして、そんなの心を見抜いたかのようなのに背を向けたまま放った言葉に彼は心底驚いた。
「彼がどうして跡部に食って掛っているのか、不思議か?」
確かに、が跡部に問い質す理由なんてない。そもそも言語闘争にしたって、サクリファイスの命令でそれは行われるから命令を受けて戦うだけの……側に明確な理由なんていうのはない。それに今回の戦闘も、誰にも命令されなかったからあまり抵抗しなかったし。
それよりも、一人のところを襲われたときの対処の仕方が身についてて、それが相手を楽しませないらしく必要以上の攻撃を受けないことも確かだった。
だけど今回は全然違って、反撃しないとマズイと思った。
だから反撃してみたんだけど、力の差があまりにも歴然としてて結果、惨敗。そして終った後、
「弱いのね、不能君?」
の言葉と共にピンヒールで手を思い切り踏みつけられた。
――俺、自分のことについて、つい先日まで平気で使ってた言葉が使えなくなってる。
あの米軍基地とかいう場所での]の言葉が、自分の心にズシリと響いていることにはこの時はっきりと自覚した。
分かってたはずだ。
インターネットを使ってその言葉を検索してみたその時に、明らかにこの言葉は戦争と共に発展してきた兵器の名前だってことが。
この名前は、自分なんかが名乗れるような、そんな軽いものじゃないということが。
この言葉は確かに人の命を奪う空飛ぶ機械を指している。
そしてその重い言葉を理解しつつも、それでも尚平然とソレが好きだと言い切ったを前にして、何も知らずに軽く言ってしまったこと。
彼の暗く重い気持ちを考えて、人の命を奪う機械を好きだと言うことへの覚悟を考えたら、その彼と対となる自分のなんと軽いことだろう。
知らなかった? 違う。知ろうしなかっただけだ。
教わったそれ以上のことを何も知ろうともしないで、それ以上の知識を求めようともしなかった。その話は意図的に隠されていたのに、ソレに対して何の疑問も持たなかった。自分の呼称に、今まで何の疑問も持たなかったんだ。
そんな奴が、人の命を奪う機械としても尚好きだと言えるそんな重い覚悟を真正面から見てる奴相手に何を言える?
だからこんな奴なんて、放っておけばいいのに。
――期待、してしまう。だから放っておいてくれ。君は関係ないよ。
そう言いたかったけれど、言葉になる前に消えていく。
そしてそんなの暗い思いなどにお構いなしに、が背を向けながら言葉を続ける。
「まぁ、何故こうなったのかの理由を、恐らく仕掛けたであろう跡部から聞いてるのさ。彼は戦闘機を追いかけてる。それは人や地域や国に暴力をもたらすと同時に、その命令者の責任の所在を明らかにする必要があるからね」
「責任の……所在?」
難しいな。良く分からない。
それにしても、こいつの口から出るきっと本来の意味なんだろう『戦闘機』という言葉の方がスッと入ってくるのは、自分自身の心の所為? それとも自分が後ろめたい所為?
判断がつかないには構わずに言葉を続ける。
「そ。暴力を振るうには責任が要る。その責任の所在を明らかにするってことさ。命令を受けて人を殺す以上、その責任は命令を下した者が持つ。戦場の鉄則だよ」
そう言ってが、を振り返った。
「戦場で、兵士が殺人に問われない理由がソレだ。命令を受け実行する側の責任は問われることはない。それは全て命令を下した側が負う。その意味で、俺は君たちのやってること、もっと言えば君たちの戦闘体系に納得したし見識も得た。もしそれが無ければ、きっと俺も納得しなかっただろうから。そういう意味では、俺は、よりも冷静なつもりだよ?」
街灯から離れた満月に近い月明りが強い光の下で、が笑った気がした。
「とは言え、跡部もなぁ」
と、困った様子で言うと「ちょっと交代してくる」と言って、未だに何かを言い合っている二人に近づいていった。
の後ろから気配を感じさせずに現れたそいつ、の野郎が街灯の向こうからやってきて告げた。
「、コータイ」
「交代じゃないです先生。俺まだコイツから理由聞いてません」
その声に、を振り返りながら言い募るのを奴は却下した。
「いいから交代。それに君の手、骨にヒビが入ってるかもしれないから見てやって」
と言って、未だ不満そうな表情を見せるをのところへと押しやるとは跡部を見て、言った。
「さてと。君への最後のアレは、ルール違反だと思うけどね。まぁいいや。俺もよくやるし。で? あんな言い訳するなんて君らしくもないね。苦しすぎて笑うところだった。君の努力が無駄になるところだったよ」
と言いつつも、それとは全く違うことをは思った。
――テメェのアレは、もっと酷いだろう。
と。
彼が教えてくれた最後のアレをもし自分がやるとするならば、彼女のやったピンヒールで踏みつけるという行為とは比べようも無いほどのモノだということを知っている。
ルール無用の世界に居たんだ。人を傷つけるパターンなんて、彼等の想像の外のようなことを実践でやってたんだろうが。それ以上のことも。
なら、それをテメェ(自分)が知らないはずが無い。そうだろう? 。
「あの場を壊さなかったことについてはアリガトウって言っておくよ。それで? 俺から何を聞きたいんだ?」
を睨みながら跡部が問い掛ける。
随分と失礼な物言いだが、コイツはのように甘くはない。その柔らかい雰囲気の中に強烈な凶器を隠し持ってる。そういう男だ。
だが、返ってきた返事は跡部にとってとても意外な言葉だった。
「いやぁ。跡部って弟想いだねって思ってさ」
「テメェ」
その言葉で、跡部はが『何故を襲ったのか』の理由について見当がついていることを悟った。
だから、確認をすっ飛ばして話を引き出す。
「初めから知ってて連れて来たのか」
「まさか。俺だって、知らない子の領域までは判断できないよ。でもまぁ相手が君となれば、それなりの見当が付くっていうだけの話で、確証があった訳じゃない」
そう言いながらも、余裕の表情を崩さないから真意が読めない。
「まぁ、俺が君の動きを知っていたとしても、今は関係ないだろう? 俺としては君が君を襲った理由が判明すればよかったわけだし。で、跡部はそれを本人に言うの?」
跡部の疑念に満ちた視線をスルリと交してが聞く。
コイツ、楽しんでやがる。俺が『楽しい』と思う次元よりも遥かに高いレベルで状況を楽しんでやがる。気に入らない。
そしてコイツが言う『それ』とは、跡部がを狙った理由。弟()に言えない。ンナ事本人に言えるか! と自分でも自分に反発しそうな本音。
それをここまで読まれてるなら、隠そうとしても無駄なことだ。
「俺だって、こんな名前が無ければあいつを襲おうなんて考えなかったんだぜ」
本当だ。
の言葉を最後につけると、軽く息を吐いてが答えた。
「それじゃ免罪符にしか聞こえない。襲う理由としては弱いけど、まぁ弟想いの跡部に免じてそういうことにしとこうか」
グサリと刺さる皮肉な言葉だが、あえてそこはスルーして跡部は反論した。
「免罪符っていうなら、テメェだってそうだろが」
その言葉に、心底意外そうな表情で自分の顔に指をさしながら、が答えた。
「俺?」
「あぁ。テメェだって、誰かの命令で動いてんだろ」
こいつは、アイツやって野郎と同じだから、誰かの命令でここに居るんだろう。そう判断して跡部が突っ込むが返ってきたのは否定だった。
「それは違うなぁ。少なくとも今俺がここにいるのは誰からの命令も受けてないよ。俺がこの件に首突っ込んでるのは、単なる俺の興味からだから。君たちの、まぁある意味幼稚な戦い方を学ぶために色々勉強させてもらってる最中さ」
「幼稚と来たか」
自分たちのやってることは、コイツから見れば幼稚に映るのか。っていうか、普段どういう戦闘をやってんだコイツ。
そんでもって、一体どんな命令を下してんだ、あの男は。
疑問に思ったが、の言葉に跡部はそれ以上の追及を止めた。
「幼稚だろ。少なくとも戦闘に際して、相手の命を奪って背負うという覚悟がない。綺麗な戦闘といえば聞こえはいいけど、これじゃただの喧嘩の延長上にある私闘にしか見えない。まぁ、相手を殺さないという点で、そのイメージをどうすればいいのかの勉強中っていうわけさ。これでもね、自分のイメージに引きずられないようにするのに結構必死なんだぜ?」
と、半ば冗談めかして肩をすくめてサラっと何気に残酷なことを言うコイツの言葉には、多分嘘はない。何故か跡部はそう思った。
自分たちの戦いが喧嘩の延長上に見えるのも、そして幼稚……言い換えれば低レベルな争いに見えるのも、多分嘘じゃない。
少なくとも言語戦闘に関して今のコイツの言葉には嘘も謙遜もない、紛れも無い事実だと、跡部は自分の直感を信じた。
だけど、気に入らねぇなぁ。事実だとしても、自分が強いと平然と言えるこの男が気に入らない。
「強すぎるっていうのも、考えモンだな。センセ」
「言っとくけど、俺は自分から強いなんて言ったこと無いぜ? 幼稚とは言ったけど。ただホンモノを知ってるから想像しやすいんだ。それだけだよ」
その否定に、確かにコイツは自分から『強い』とは言わなかったなと妙に納得したのと同時に何の『ホンモノ』を知ってるかとは言わなかったが、きっとロクなモンじゃない。そう思った。
だから嫌味を込めて
「一々正論と事実で返すなよ」
と言うとは
「お褒めに預かり光栄ですよ。跡部君?」
と、にっこり笑ってそう答えた。