入道雲が走る空をじっと見て、行くべきかどうしようかは迷っていた。
 昨日聞いた話だと、隠しているようだが明らかに様子が変らしいということで。
 そろそろ反動が来る頃だろうなぁとは思ってたんだよねぇ。
 と、鍵をポケットにあることを確かめてからは、終業式が終った校舎の屋上の壁に足を乗せて出っ張りのところまで移動して立ち、そのまま足を投げ出す形でコンクリートの梁の上に座って考えている。
 この場所は地面からの上昇気流が強くて涼しく、彼の高校の頃からの夏の特等席なのだが知っている者は当時から誰もいない。
 だから、集団の中の孤独を味わいたいときや考えをまとめるときにここを訪れては、空を見上げながら考えたりシュミレーションを組み立てたりするのは半ば習慣化している。
 雲は、自由に動いているようで実は空の気流によって動かされている。
 水滴が動くのは、なるほど電子の動きに良く似ているからか。
 ま、宇宙の端を通って無限の通り道を通る電子と物質としての水滴では測る大きさが単位からして違うのだが。
 と、自分が大学のときに専攻していた分野を思い出して慌てて思考を現実へと引き戻す。
「まさか先生になってもここに足を運ぶとはね」
 と同時に中々抜けない自分の癖には苦笑いして、その鍵が何故ポケットにあるのかのイキサツを思い出す。
――ちょっと、相談したいことがあるのだけれど、肩への調整を受けながら聞いてくれますか。
 そう尋ねてきたのは、傷を負ったときにとてもお世話になった先生で今や既に半年に一度の頻度になってしまった検査通院の時だった。
 いつもは診察という名の簡単な経過報告を彼女にした後はもう直ぐに看護士に任せきりにするハズなのに、今日は最後まで見てくれたと同時に聞かされた相談と、その時渡された鍵を取り出して千秋はそれを空にかざしながらジッと見つめている。
 ったく。俺に如何しろってんだよ。先生。
 と、少しだけ心をあの頃に戻してはお世話になった彼女のことを考えた。
 の言う過去への『IF』というわけではないのだが、もし彼女が偶然にもあの日彼女が当直を交代していなければ、きっと自分は助かっていない。
 つくづく彼女には頭が上がらないなぁと、空にかざしていた鍵を下ろしては思う。
 そして、その手にあるのはそんな彼女の家の鍵で、それはつまり、彼の家の鍵ということでもある訳で。
 それは有無を言わさず『行け』ということを意味していた。
――女の人は凄いからな。それはあの空挺隊を見れば分かるだろう。
 噂で聞いた女隊長が率いる空挺隊の話が本当だと知ったのは、あの戦争のとき。
 共同戦線を張るときにバックアップとして入ったときに、その凄さを思い知らされた。
 ったく。怖い怖い。だからと言って預かった以上は何もしないまま返すわけには行かないし。
 何より命の恩人だ。
 それにあの時呟かれた、彼に事の外側に置かれてしまった跡部の言葉が今も耳に残っている。
「全く。外で見るしかできない俺の身にもなれってんだ」
 と、本当は誰よりも">のことを心配してる跡部の思いも。
 そこまで考えて、上から自分を呼ぶ声が聞こえて首を回して見上げたら、そこに見えたのは眼鏡をかけた生徒だった。
 誰にも教えていないはずのこの場所を知ることが出来るのは一人しかいなかった。
 ま、偶然見つかることもあるかもしれないが、はっきりとこんなところに居ると分かるは彼だけだろう。
「そんなところで命綱もつけずに何をしてるんですか」
 と、その眉間にシワを寄せて怒っているのが伺えた。
 だが、飄々とした風体を崩さないはニヤリと笑って
「手塚って、案外心配性だね」
 と言って腕を伸ばして柵を越え、屋上に降り立った。
巡空桜花
 日が沈んで部屋が暗くなっても、その部屋に電気が点く気配がなかった。
 中に居るはずなのにずっと暗いままで、明かりが点くのも彼の母親が帰ってくる少し前。母親が帰らない日は、一晩中点かない日も珍しくない。
 電気も点けずに中で一体何をやっているのか。
 気になりつつも、外に居る自分では確かめ様もなくただただアパートの一室を電柱の影から見守るだけだった。
 そんな、暗くなっていく通りの向こうから一台の車がアパートの駐車場へと入っていく。
 ん?
 ここ一週間、時間があるときは常にこのアパートの前にいるけれど、車で帰ってくる人は居らず大抵自転車か歩いて帰ってくる住人がほとんどで車で帰ってくる人は居なかったはず。
 そう思って車から出てきた人間を注意深く見ていると、出てきたのは白いシャツにスラックス姿の一人の男で、その男が大家の家の玄関を叩いている。
 誰?
 心の中で男が誰なのか疑問に思ったその直後、その人間の名前は直ぐにわかった。
 家の中から出てきた大家らしき恰幅の良い女性が、よく通る声でその名前を呼んだから。
「あらさん」
 その名は、自分に応じもしなかったくせに結果的に勝った男の名前だった。
 戦わずに勝った男の名前が大家の口から出て、は驚いた。
――どうしてここに?
 あの日以来自分がを追ってることに気付いて?
 まさか、そんなハズはない。ちゃんと見えないように配慮してるし、勘付かれないように気配も殺してる。だからバレるはずもない。その点に関しては自信がある。
 しかし、あの男だと話は別だ。同じ力を持つあの男は違う。
 は、焦った。
 でも、大丈夫……だ。
 そう思ってホッとしたところに、声が掛った。
「そんなところで何してるの」
 気付いた?!
「……」
 答えないでいると、少し戸惑った口調で名前を呼ばれた。
「あの、君?」
「……はい」
 この男は苦手だと、正直そう思う。
 何故ならこの男、は自分に戦わずして勝利したから。
 あの日、あの公園で言語闘争に誘ったにも関わらず、この目の前に立つ男は全く応じようともしなかった。
 自分に、戦わずして勝った男。
 それは彼に自分と戦う価値もないと言われた気がして、ますますを勝手に敵対視しているのだが、当のはそんなことを知る由もない。
 それ以上に驚いたことは、が本当に好きなものを知ったこと。その時の彼の静かな怒りの声と表情が忘れられない。
 数時間だったように思う。
 あの圧倒的な風圧に、轟音が響くとても煩い世界に連れて行かれて。
 そして知った。この男の正体とも言うべきモノと自分の本当の『敵』は一体誰なのかという真実。
 それはとても信じられないことに守るべき相手である自身だと言う事を、手塚と名乗った高校生が容赦なく告げてきたこと。そしてこの男はそれに対して止めなかったこと。
『ま、手塚が言うなら俺は止めないけどね』
 ショックだった。
 どうして? と。
 あの後、車を降りてからどうやって家に帰ったのか覚えていない。それほどにショックなことだった。
 一晩中悩んだ。
 悩んだ結果、気配も姿も消して彼を知ることから始めよう。そう思ってこうして、ストーカー紛いのことをしてるわけだけれども。
――本当にこれで良かったのだろうか
 そんな思いがずっとある。
 何が正解か分からないけど、でも動かないよりはマシだと。そう思ったから。
 それにの言葉が本当にショックだったし。
『そうやって、責任転嫁してくんですね』
 聞き取れなかった、風に消えた言葉を何とかつなぎ合わせて出てきたのはその言葉だった。
 自身の、と重なる言葉が本当にショックで。
「ねぇ、なんで見えないようにしてるの」
 そんなの疑問に、が刺々しく答える。
「あ、あんたには関係ない!」
「いや、まぁ。関係ないことは分かってるんだけど……」
 困惑しながら答えるに、思い切り噛み付いた。
「あんたには分からない。あの学校で、特殊クラスとして分けられて、ずっと相手が見つからない人間の気持ちなんて、分かる訳ない!」
「ん?」
 サクリファイスが二人居るのが許せない気持ちもあったのだろう。
 今まで誰にもぶつけられなかった事を、に対して思いっきりぶつけた。
――俺に、過去の『if』は通じないよ
 が降りた後の、三人残った車内で大人の意見として淡々とした口調で自分に">よりも理路整然なそれでいて噛み砕いた理論を展開してきたから。
 だから、キライだ。
 余裕ある大人の男を見せ付けられた気がして、それも気に入らない。
「いや、俺としては君の気持ちじゃなくて質問に……」
 困惑した表情をが見せるも、それでもは止まらない。
「ずっと見つからなかった俺の気持ちなんて分からないだろうな。特殊クラスとして分けられて、年々人が減っていくクラスに、別のクラスの奴が囁くんだ。アイツ、まだ見つかってないんだぜって」
 下を向いて暗くなった地面を見ながら、自分で言ってて悲しくなってきた。
 小学校からあの学校に入ってた。寮生だったこともあるけれど、それでも夜とかに行われる訓練をしても何をしても繋がるべき相手がいないことの虚しさだけがを襲い、常に負け続けてきたことへの悔しさや性質の悪い奴らから目を付けられて嫌がらせもされたこと。
 そんな生活がずっと続いてやっと去年卒業して家に帰ってみたら、親が自分を見る目はやっぱり変わってなくて結局そこにも居場所がなかった。
 学校にも、家にも居場所がないなら何処に居たって同じだ。と。そして
「君は本当に、自分だけが不幸の少年だと思ってるわけだ。おめでたいねぇ」
 と、聞きなれない冷たい声がそこに響いてがその声に驚いて顔を上げると、目の前にあったのは見たことがない暗がりでも分かるの厳しい表情で。
 初めて見るのそんな顔にたじろいていると、その表情に相応しいとも言える冷たい声で言ってきた。
「あのさ、真面目に疑問なんだけど。俺に何を甘えてるの?」
 と。
 最初は、が何を言っているのか分からなかった。
「なに……を」
「甘えるのもいい加減にしたらどうだっていう話。人の顔を見れば突っ掛かってきて、さっきから会話になってないし。ソレ、端から見たらみっともないよ」
 肩に背負ったショルダーバッグを掛け直しながら真剣な表情で話すを、初めて見た気がする。
 コイツ、こんなに怖かったっけ?
 そう思ったが、言葉にはならなかった。
「君はさ。五歳で銃を握った人間の気持ちなんて分からないんだろうな」
 な!?
「は、はぁ?」
 は余りにもの冷たい物の言い方とその様子の変化が不可解で戸惑いを隠せないでいる。そしてその言葉のあまりの過激さに、思考が停止しそうになった。
 この男について知っていることは、青春学園高等部の物理の教師、そしてと接触した日に知った事実はアメリカ人だってこと。そして、あの連れて行かれた軍の基地のフェンスの向こうに行くことが出来る人間。それくらいだ。
 あと付け加えるなら、コイツもと同じように理数系の頭をしてるってことくらい。じゃなかったら物理学の先生なんてしてないか。
 あの後、家に帰ってしばらくしてからこの男が言ったラグランジュ方程式という言葉が気になって、普段滅多に使わないパソコンを起動してインターネットを使って検索を掛けてみたら、出てきたのは振動とか何とかに関する物理学で使われている本当の方程式だって知って驚いたから。
 そしてそこに表示されていた訳のわからない数式と言うべきか、記号と数字の羅列に驚いてこれが基礎だと言い放ったこの男の知能というか何と言うか、とてもではないが自分とは違うということに気付かされたから。
 そして、震える手で戦闘機とキーボードを打って出てきた結果に、は心底驚いた。
「ワイヤートラップとかね。仕掛けるのは得意だったよ。相手を狙撃するのも。銃弾が飛び交う中走るのもね、本当はイヤだったけどやらなきゃ自分が死ぬ。そんな環境なんて、君には想像もできないだろう。お陰で運良く生き延びて、12の頃には立派な陸戦歩兵だ」
 まるで独り言を呟くようなの言葉に、一体誰のことを言ってるんだ? そう思った次の瞬間に気がついた。もしかして、コイツ自身のことなのかもしれないということに。
「あんた一体……」
 何モンなんだ。そう言いかけた言葉は、遮られてしまった。
「って、冗談だよ冗談。ま、中にはそんな人生を歩む奴がこの地球上には存在してるのかも知れないっていう例え話さ。でもまぁ、貧しい国なんかでは年齢が一桁の時に耳が落ちる子も少なからず居るからね、実際」
 さっきとは一変した柔らかい雰囲気を出しながら言う最後のその言葉は、にとってショックだった。年齢一桁ってことは、10歳未満で耳が落ちるって……こと、だ。
 驚いた表情のまま固まったが言葉を続けていった。
「だから君はその年まで耳がついてる分、幸せだと思うよ。無理矢理落すなんてこと誰からもされてないんだからさ」
 が、言葉を濁したのが分かった。そしてソレは追及してはいけない。そう思ったがの口は動いていた。
「無理矢理?」
 その時、夏の夜の生暖かい風が通りに吹く。その空気は、後数時間もすればもしかしたら雨が降るかもしれないと予感させるほどの湿った空気だった。
 急に吹き始めたその空気が、それ以上彼の言葉を聞いてはいけない。聞くなと警告するようで、もしかしたらは耳を塞がなければらなかったのかもしれない。
「そう、無理矢理。それはね」
 聞きたくない。
 そう思うのに、手が動かない。
「レイプだよ」




 ここ最近、一人でいると暗い部屋の中でずっとパソコンの画面が表示している映像を見て、ただひたすらに考えている。
 二年前の中学二年の夏に先生と親友の竹中を敵に回して大暴れした自分。
 竹中との言い争いから発展したそれは、やがて先生をも巻き込んでいくことになって。
 っていうか、ガキだったなぁ
 と、二年前の自分をギシリと椅子を揺らしては振り返った。
 周囲と大喧嘩して以来、変な目で見られ続けているのは知っている。
 そして竹中に暴力を振るったと勘違いした向こうの両親がこの家に乗り込んできたことも。
 あの大喧嘩の後、竹中がどんな経緯を辿って図書館で本を読んでいた自分に近づいてきたのかは聞いていないし、これから先も特に聞く事もないだろうと思っている。
 竹中が言うなら話は別だが、あの件に関しては自分から動く気はなかった。
 その時、ガチャ……という音が玄関から聞こえて、母が帰ってきたのだと思ったは慌ててパソコンの画面を落とす。と同時に掛った声に驚いた。
? 居るかい?」
 まるで恐る恐るといった感じの声音でそう言ったのは聞きなれた先生の声だった。と同時に疑問が湧いてきた。
「え、なんで。鍵はちゃんと」
 玄関が見えるところまで来ては呟いた。
 確かに鍵はちゃんと掛けていたはず。
 なのにどうして?
 そんな疑問を感じ取ったのか、が最後の言葉を知りきれトンボにさせた、の後を引き継いで、彼の家のドアを開け玄関に立っている自分の経緯を申し訳無さそうにしながら簡単に語る。
「あ、良かった。居たんだ。あ、ごめん。一応来る前に連絡を入れてさっきから玄関叩いてたんだけど出ないから、悪いけど勝手に開けちゃった。ごめん、居ないって思ったから」
 電話?
 そう思って慌てて充電中の携帯を確かめると、何件か着信が入っていて慌てたはその伝言を聞くために携帯を操作して耳に当て、そこに残されたの言葉が最後の方の伝言では自分を心配している様子に変化していては幾度かの電話にも気付かなかった自分を恥ずかしく思った。
「あ……」
 そう言ったきり固まったはとりあえず
「上がっていい?」
 と言う言葉で引き戻す。
「心配だから様子見を見にきたんだ。って、部屋ん中暗いな。電気つけていい?」
 靴を脱いで部屋に上がりながらそう尋ねると家主の息子たる彼、が薄暗いその闇の向こうで彼が頷くのが見えた。
 そして、電灯の紐に手を伸ばしながらのことは知らせないでおこうと思った。何故なら、彼の性格なら話を聞いた途端に玄関を飛び出していってしまう。そう判断したから。
 それにが彼の判断で姿を隠しているということは、彼なりに]に対して気を使っているのだろうとも思えるから、ここでそれらの努力を水泡に帰すのは無粋だもんな。
 と、なるべくにはのことを持ち出さないよう配慮しながら、電灯の紐を掴んで軽く引くと部屋の中が明るくなって中にいた彼の少し憔悴した顔がはっきりと見えた。
「大丈夫?」
 思わずそう口走ってしまうほど、から見てもの顔のやつれ具合が分かるほどに、それは彼がここのところ寝ていないのだろうということが手に取るように分かった。
「……大丈夫です。あ、はい。すみません気付かなくて。何か、飲みますか」
 そう答えてフラフラと頭を揺らしながらが慌てて冷蔵庫に手を伸ばしたて聞くと、が逆に「いや、買ってきたからいいよ。飲む?」と断って左肩に背負っていたバッグの中から近くのコンビニで買ってきたのだろう袋を取り出して更にその中からお茶とおにぎりを出して「食べる?」と聞いてきた。
 最初は断ろうとしただが、帰ってきてから何も食べていないことに気付いてそこは素直に
「頂きます」
 といって受け取ると、目の前に立つが缶コーヒーを開けるのを待ってカチリとプルトップの蓋を開けた。



 コトリという缶をテーブルに置く音と共に二人の会話が部屋に響く。
「うん。昨日の診察の時にお母さんから鍵を預かってね。それで、今日は手術が入ってて帰れないからって」
 そう言って持っていた鍵をテーブルの上に置いがそれを受け取って。
「そうですか」
 と答えつつも、確か朝出るときにそんなことを言っていた気がすると考えて、実際あまり良く覚えていないことに気がついた。
 それほどに、自分の中であの日のことが大きくなっているのだと自覚すると同時に、母さんの前で二年前みたく心配かけたくない、そういった思いからなるべく隠していたつもりだったが、どうやらバレバレだったようだとは思った。
 でなければ、母がこの先生に様子を見に行くようになんて頼むはずがない。
「お母さん、心配してたよ」
「分かっています。その……ごめんなさい」
 が買ってきたおにぎりを食べながらの母親の心情を告げる口調は責めるようなそれではなかったが、それでも彼は謝った。
 しかし、をここに来させる割りには母が自分に対し何も言わないのは、自分を信じているか……ら?
 ソレばっかりは流石のでも分からないし、それに未だに母の心は良く分からない。
 分からないから、としては間接的にとは言え迷惑を掛けてしまったに謝るしかできないでいる。
 過去を振り返ることはしたくないけれど、それでもやはり後悔は残るから。
 あの日、無理矢理頼み込まなければアイツと会うこともなかったのかな。
 と。
 そして、あの男が言った言葉に触発されては、ここ最近ネットで落ちているとある映像をずっと見ている。
 そしてずっと考えている。
 写真の情報源は確かに持ってるけれど、動く映像としての情報源を手軽に見れるとなるとやっぱりネットに頼るしかなく、またバイトと学校での実験も合わさって、公文図書館や資料館に見に行ける時間が中々取れない。
 それにが一番好きな機体は、関東ではエンジンしか残ってない。それが一番心残りで、かつネックな部分でもあった。
 エンジンは戦闘機の心臓部。しかし『皮』がなければそれはただの機械でしかない。
 空を飛ぶには空気の力が必要だから、それを使う空力というものを考えた体が必要なのだ。
 そしてそれは、日本の本土最南端とも言える県に安置されている。
 ネットに流れている映像の中にそれを写したものがあって、は強烈にその現物を見に行きたいとそう思っていた。
 けれど、現実はソウ簡単には甘くない。時間が取れない。バイトと学校で精一杯で夜は夜でずっとネットの映像を見る生活だ。
 現にこの先生が家の玄関を開けるまで、何回も掛ってきた電話にも気付かずドアがノックされていることにも気付かないでずっとヘッドフォンをつけたままパソコンを見ていたのだから。
 電気をつけないのは、目が疲れやすくなるのを防ぐためとパソコンの明かりを落として見ることが出来るという両方のメリットから。
 と言っても、長時間見すぎても疲れるから結局同じなんだけどな、とは心の中で自嘲する。
「先生」
 呟くように出た彼を呼ぶ声に、おにぎりを食べていたの手がピタリと止まる。
「俺、どうしていいか分からないんです」
 下を向いて、缶珈琲を両手で持ちながら下を向いたが呟くような独白を続ける。
「アイツが自分のことをアレだって言ったとき信じられなかった。あの日、フェンスの前で最後は言い争いになって。ていうか、俺が一方的にアイツに話してただけなんですけれど。でも、止まらなかった」
 が話を止めると、部屋が静かに沈黙に包まれる。きっと話を聞いているとしては、自分から動く気はないようで、ただ黙って静かにが言葉を再開させるのを待った。
 今は兎に角焦らせないこと。それが大事だと判断してが自分から話すまで待った。
 やがて話を続かせただったが、やはり戸惑っている様子が手に取るように分かる。
「あいつは、俺の質問に答えなかった。先生みたいにアレに乗って命を掛けられるかって聞いても、何も答えなかったんだ」
 恐らく、答えられなかったのだろうとは思った。
 に対して何をしていたかは、監視カメラの情報を見ていた警備班の連中から話だけは聞いている。
 ただし声を拾うことは騒音の関係などがあって出来なかったので、カメラボーイがチェリーに対して何を言っていたのかは分からないと言われたが。
 があの日、から聞き出したかったのはに対して何て言ったかということだったから、彼自身の口からこうして話を聞くということは、にとっても渡りに船だったわけで。
 とは言え、手塚には反対の意思を示されたが、そこは珍しくが反論したのだけれど。
――それは、あなたに子供時代が無かったからですか。
 グサリと響いた手塚の言葉だ。
 暗に余り関わるなと言われたようなものだが、それでも見てみぬ振りを出来るほどは冷酷な人間ではない。
 確かに一度点火されれば、どこまででも冷酷になれる人間ではあるのだが、それをここで出すほどは場を弁えていない人間でもなかった。
 それに助けてくれた命の恩人、医師の息子さんだしな。と、その点の加味もあったのかもしれない。
 そう思っていると、が顔を上げてに聞いた。
「先生だったら、俺の質問にどう答えますか」
 それはきっとにも問い掛けた、『乗って命を賭けられるのか』という質問か。
 そう思ったは、テーブルの上にあった缶珈琲を一口飲むと、ゆっくりとテーブルに戻してから答えた。
「実際乗ってる人間にその質問は野暮だよ。だって、それが仕事だから」
 命を掛ける特殊な仕事。
 最前線で、その地域・国を守るというのが仕事で、そしてそれは冷徹かつ無慈悲とも言える地政学に基づいた軍の配置からくるものだ。
 もちろん、向かう場合もあるにはあるが、その判断に軍は関われない。建前上は。
「数千・数万というゴシップや噂、また経済や利権からくる争いの中で、軍を動かすっていうのは本当に本当の最終判断だしね。よく言うでしょ? 軍行動は、外交の最も最後に下されるって。そして、そんな無限とも言える情報の中の一番最後に降りてくるのはたった一つの命令だもの。だから、君のその質問には、俺も答えられない。あえて言うなら、君のような人から俺たちが『そう見える』ってことが重要なのかもしれないね」
 この答えに、はマジマジと驚いた表情での顔を見た。恐らく今まで考えたこともなかった答えだったのだろうの答えに、はただただ驚いていた。
「駐留する軍にとって、一番重要なのは何かわかる?」
 その問いに、が静かに答える。
 それは、雑誌か何かで見た答えだった。
「えっと、確か広報だって……あ」
 自分の答えに何かを見つけたようで、しばらくそのまま固まったまま動かない。
 やがてゆっくりと缶を掴んで一口飲むと、に再度質問した。
 今度は間違えない。そう思って。
「先生は、兵器として扱われてどう思いましたか。軍人として」
「禅問答だねぇ。兵器の中に乗っているのが『兵器』を名乗る人、か」
 そう言って天井を見上げるの目は、どこか遠くを見ているようではそのことが少しだけ引っ掛かったが、それでも突っ込むようなことはしなかった。
 米軍の空の大尉である。それ以上のことは知らないしまた知ろうとも思わないけれど、それにしても、一体どんな経歴を辿ってきたのか。
 少しだけ気にならないと言えば嘘になるけれど。
 そしてこの人は、あの時声をかけてくれた人。
 憧れた『パイロット』という職だが、それでも自分から乗る側に立とうとは思わないのはきっと作ったり研究したりする側の方が自分に合っているから。そう思えた。
 だから徒埜に進んだんだけれどな。
 と、周囲から反対も何もされなかった工業高校への進学は自分には合っているとは思った。
 まさか中学のとき一度は絶交寸前までいった竹中も進学してくるとは思わなかったが。
「戦闘機は兵器で、人やモノ壊す戦争の道具で、でも格好いい。矛盾した存在ですが、それでも俺は戦闘機が好きなんです。それを、あんなヘラヘラとした何の覚悟や誇りを持たない奴に自分がそうだと言われたくないんです」
 その言葉を聞いて、が少し微笑った気がにはしたが、それが何を意味するのかまでは分からなかった。
 もしかしたらの見間違いかとも思えるほどの小さな変化だったから。
 そして、そんながゆっくりと口を開いた。
「俺は確かに握るけど、でもそこまで拘ったことは無いよ。確かにそう呼ばれることに違和感は感じるけど、でも、それとコレとは別だって、そう思ってるからね」
 と。
「拘るのは君の勝手だけど、君だってそのコダワリを君に押し付けてるんじゃないの」
 そう言われて、が反論しようと顔を上げたその顔はとても意外だとでも言わんばかりの表情で、それに苦笑いしたが諭すようにゆっくりと言葉を続ける。
「向こうの先生もね、言ってくれたよ。随分失礼な呼び名でしたねって。向こうだって分かってるのさ。この世には空飛ぶ戦闘機乗りが居るって。だけど向こうがその名称を変えたなんて話は聞かないし、こっちだって今更変えるわけには行かないし。いいじゃない。同じ名前のヤツが二つあっても」
 それでも納得いかなかったのか、が反論しようとするのを防ぐ形でが結論を出した。
「とは言っても、一方は確実に人命を左右するほどの兵器だけどね」
 それはつまり、が納得はしないまでも自分の中で決着を付けているということでもあった。
 機械と人は同列には語れない。
 ならば、それに乗って飛び込んだ人たちは一体何なんだろう。
 映像を見ただけでは答えは出なかった。
 そして、軍に属していない人間から『そう見える』ことが大事だとの口から聞かされたの悩みは、ますます深くなっていった。
 と同時に、少しだけ晴れた気がした。
、よく考えて。俺から言わせれば、君の葛藤はとても大事なことだと思うよ」
 優しい笑顔でそう言って立ち上がろうとしただったが、途端厳しい表情になって玄関を見た。
「先生?」
 声をかけたの声を「シッ」と言って黙らせるほどに。
「外で誰かが……? っと……これは誰だ」
 室内に居ながらも、まるで何かを探るようにして玄関の方をジッと見ながら呟くの表情にはこれ以上声を出すのをやめて彼に場を預ける。
 何故ならアイツの名前がの口から出たということは、あの日自分を操った変なモノが関わってる。
 そう思ったから。
 そして、アイツの言葉を借りるならも彼と同じモノらしいということだったから。
「マズイな。行こう
 そう言って玄関に歩き出すに、が戸惑いながら声を掛けた。
「行くってどこへ?!」
 そして返ってきた言葉には心底驚いた。
「決まってんだろ。君と、対峙してる誰かのところだよ」
アトガキ
巡空桜花
2023/07/07 書式修正
2009/08/04
管理人 芥屋 芥