その日は、朝は大雨で昼から晴れるというそんな天気だった。
 朝から最悪の土砂降りの雨で、これ本当に梅雨かとそう思えるような激しい雨だった。
 お陰で学校に着く頃にはカバンも制服もかなり濡れてたけれど、やがてこれでもかというほどに太陽が照り付けてきかたら気にならなくなった。
 こりゃ蒸し暑くなりそうだと、雲間から覗いた太陽を開け放たれた窓の向こうに仰ぎ見てそう予想したは、突然何かを思い出したような表情になり椅子から立ち上がると慌てた様子で教室を出て行った。



 向かった先は、立ち入り禁止のはずの屋上。
 だが、その禁止のチェーンが緩いことを知っている>は何のためらいもなく扉を開けて外に出てある目的のものを探して歩き出す。
 そしてそれを見つけてしゃがみ込んだその顔はいかにも『ヤッチマッタ』と言った感じが漂う表情で、少し悔しそうだったけれど。
「あーあ。すっかり忘れてた」
 の嘆きの声を受けているのは、一つの小さな箱だ。
 小さな箱と言っても、横の長さ十五センチ強、縦の長さ五センチ程のシャーペンが数本入るかといった筆箱程度の大きさの箱だが、その中からそれぞれの角の三方向から線が一本ずつ延びているという、見た目からして不思議な箱だった。
 そしてそれを手に持つと中から流れ出てきたのは水だった。
 恐らく線が通っているところから侵入したのだろう午前中の雨水がポタポタとその隙間から漏れ出している。
 それを見たは顔に後悔の色を滲ませて
「あっちゃぁやっぱりなぁ」
 と嘆くように言いながらも、彼はその中がどうなっているかの予想をつけた。
 いや、想像しなくても分かる。いわゆる『中の惨状推して知るべし』である。
「これでしばらくHF帯はお預けか」
 残念、とばかりにその水浸しになった木の箱をパカリと開けると中の基盤を取り出して太陽に当てて乾かし始めた。
巡空桜花
 午後になっても、午前中の雨が残した湿気からくる蒸し暑さは教室の空気から取れることは無かった。
 の予想通り蒸し暑くなった天気で教室が茹だるな空気に包まれている中まともに授業の声なんて頭に入るはずもなく、教えている先生もかなり面倒くさそうにしている。そんな昼が終って直ぐの授業の光景が目の前に広がっていた。
――クーラー欲しい
 心底そう思う。
 が、公立のしかも工業系にそんな予算が回ってくるはずもなく。
 この学校も例にもれず、要所要所の冷房が必要な箇所以外の普通の教室にそんな高価なものなんてあるはずがなかった。
 ま、いいけどね。下敷き団扇さえあれば。
 と思いつつ周りを見渡すとホトンドの奴等が下敷きで扇いでいたけれど、そして自分もその一人なのだが、中には二枚使って左右両方から扇いでいる奴も居る。
――ったく、どうやってノート取ってんだ。ていうか、取る気ねぇだろ。
 と、教室一番後ろの窓際のいつもなら先生にバレナイ席だからと有り難がられるハズの席に、休んでいる間に勝手に決められて座っているは思った。
 この席、通常は競争率が高いハズなのに、決めるときに居なかったが何故座らされているのか。
 それにはちゃんとした理由がある。
この、が通っている学校の校舎の向きが少し南西に向いてるからで、つまり午前中はそうでもないのだが十時を過ぎた辺りから地獄になるというわけだ。
 ただでさえクーラーも扇風機すらない、いくら窓を開けていても生暖かい湿気がこもる教室の空気に加えてまるで罰ゲームとばかりに更に直射日光を浴びる席。
……嫌われるのも無理は無かろう。
 しかもの教室は全教室の中でも午後からの日照時間が他の教室に比べて少しだけ長いと、卒業生の誰かが作った『各教室の夏の日照時間レポート』なるものが存在していてるわけで。
 データを重んじる工業系の高校にあって、そんなレポートが存在しているのも手伝ってか、この教室のこの席は夏の季節にはご遠慮したい席ナンバーワンの席だった。
――そりゃ敬遠するのも分かるわ。こうも暑いんじゃ
 恐らく今が座っている窓側の席と廊下側の席とでは一℃くらい温度が違うんじゃないか。そう思えるほどに、の席は暑かった。



「あちぃ」
 しかしそんな茹だるような暑さの中にあって、その日最後の授業が始まる頃にはのその顔はとても楽しそうな様子になっていた。
 なんと言っても今日はバイト以外の予定があるから。
 この後近所のスーパーの月に一度の大安売りで食材を買った後の予定がとても楽しみだったから。
 そして、その予定に比べればこんな暑さなんて言うものは何ともないとないと思えるほどの予定。
 何せ久しぶりの夜間訓練の情報が上がってて、それに行けることになったから。
。お前さっきフケたろ。どこ行ってたんだ」
 と隣に座る親友のまだ耳と尻尾を取っていない竹中が五限が終った休み時間の間、午前中最後の授業をまるまる潰したを咎めるように言ってきた。
「ん。あぁ。ちょっとな。何なんかあった」
 言葉を濁したが聞き返すと、竹中は肩をすくめてずり落ちた眼鏡を直すと机の中から紙を数枚差し出してきて言った。
「いや、何もない。それよりコレ、必要だろ」
「お、助かるよ」
 と応じてそのルーズリーフを受け取ると、は早速そのノートを写し始める。
 休みの時間は五分しかない。
 よってさっさと写し終えければならず、だからと言って全部を写している時間的な余裕もない。
 だからは、こう言うときはレポートをまとめるようにして教科書と照らし合わせながら、筆箱から取り出した付箋を貼ってチェックしていく。
「やっぱ効率いいわ。お前」
 と隣で竹中が感心したように呟いたがは、お前の方が頭良いだろうがと心の中だけで反論した。



 眼鏡を掛けインテリ系の顔をしている竹中亮と明らかにヤンチャといった顔をしている">は小学生からの親友で、何をするにしても一緒な近所でも有名な悪ガキ二人組みだった。
 そして成績優秀だった竹中の方は周りからの信頼が厚く、二人で悪さをしていたハズなのに見つかったらいつもばかりが怒られていて竹中に被害が行くことは無かったのは、彼の立ち回りが上手いからというか何というか世渡り上手だったからだが、そんな竹中が初めて親に先生に反抗したのが中学三年のときだった。
 理数が得意で学校の成績も良くて、誰もが理数系の偏差値の高い高校に行くものだとばかり思っていたから、竹中自身からこの惟埜(ありの)にすると聞かされたときは随分と驚いたものだ。
 その日は、中学二年の夏休みに疎遠になって以来初めて一緒に帰った中三の夏休みに入る最後の終業式の日だった。
 そしてその日は、それまでお互い学校で顔を見ることはあっても、なんだか気まずくてそれ以上の接触はなんとなく控えていたのが終った日でもあった。
 竹中が図書室で本を読んでいたの真正面に座って、まるで疎遠になる前と同じような態度で『帰ろうぜ』と言って本を掴み上げてきたから。
 まるで、それまでの疎遠になっていた時間なんて無かったかのように。
 本を取り上げられたは、急に近づいてきた竹中に驚いて、何とか『あ、あぁ』と答えるのが精一杯だったように思う。
――お前クラスの奴はどうしたんだよ
 とか、何か言ったような気がするけれどその辺りは良く覚えていない。そしてその帰り道で、初めて進路とか将来のことについて話したように思う。
 しかしイキナリ近づいてきた竹中の意図が読めず、まだ警戒心が残るに向かって彼はサラッと
「俺、惟埜工業高校に行こうかって思ってるんだ」
 と言ったわけだ。
 そして竹中からのそういう話は、が驚くだけでは済まされなかった。
 最初に話を聞いたですら『どうして』と問い質したくらいなのだから。
 そして三者面談のときの、一クラス分離れたところの廊下に居ながらも聞こえてきた担任の先生の必死の説得の声も。
『竹中、お前分かってるのか。惟埜工業高校と言えばそりゃレベルは高いけど、噂が絶えない変人ばっかり集まる高校で有名じゃないか』
 と。
 ある種の噂については、も良く知っていた。というよりそれが合うと皆が思っていたからこそ、彼がそこに進むと言っても誰も何も反対はしなかった。
 むしろ『行けるものなら行けばいい』とまで言われたのだから。
 しかし竹中には合わない。誰もがそう思っていた。そう思っていたからこそ彼の親も担任も友達も誰もが反対した。
 が、だけは反対しなかった。
 最初の話を聞いたときの『何故』という疑問以外、そして竹中もそれに明確に答えたわけじゃなかったけれど、しかしそれ以外は何の反対もしなかった。賛成もしなかったけれど。
 そして、意外にも意思が強かった竹中はそれら周りの猛反対を全て振り切って、この惟埜に進むと言う考えを捨てずにこうして進学したわけだ。
 理由は知らない。
 でも、原因はアレだったのかもしれないという見当をつけることはできた。
 何故なら、それには自身が深く関わっているからなのだが。
――それにしても、真面目なことで。
 その几帳面に授業の内容が書かれたルーズリーフを見ながら、は素直にそう思った。



「お前、なんか気持ち悪いぞ。顔」
 突然随分なことを言った竹中だが、そこはそれ。親友だからその手の掛け合いは手馴れたもので。
「え、あ。そうか?」
 と、自分の表情が気持ち悪いものになっていることなどと、全く自覚のなかったがそんな怪しげな人物を見る表情で自分を見ている竹中に質問で返す。
 そして、気持ち悪いと言われた部分はスルーする。
「そうだよ。それも思いっきりな。あんまりニヤニヤしてるとお前、また変な噂が立つぞ」
 と、最後に忠告をしたところで教室に入ってきた担任の姿を認めて前を向いたからその話はそこで終ったけれど、その噂のことは言われたが一番よく知っているはずだった。



 ここは公立の、おまけに工業高校だからか見事に野郎ばっかりの環境にあって、今の時点で耳がない奴はクラスの三分の一ほど。
 つまり、耳がなくなるとある種のカラカイの対象になってしまう訳で。
 しかし取った奴は取った奴で、未だつけている奴を子供扱いするという、そんな二律背反の世界がこの教室内でも存在しているわけだ。
 そんな中にあって、竹中は耳がありは耳を取ってしまったあの二人の親友の仲は一体どうなるのかといった噂が流れていることくらいは、いくら噂とかには疎いでも知っている。
 そして、その件に関して竹中は随分気にしてるみたいなのだが、ゴシップネタには興味がないからしてみればそんな噂なんて無意味に等しかった。
――ま、どうでもいいよ。
 と、目下その噂の中心に居るらしい自分の立場を鑑みても、そう評価を下せるほどに。







 スーパーで買い物して帰って見ると、部屋の明かりは付いていなかったから母親が不在だということは直ぐに分かった。
 昨日の昼から呼び出され、そのまま当直しているからもうかれこれ30時間以上の勤務をこなしてると言う事になる。
 いつもなら当直の翌日は夕方三時には終るから、それ以上の時間を拘束されているということは急患か何か、緊急の仕事でも入ったのだろうかとは勝手に判断して、というよりも母親が働いているということはそれだけ命に関わる人が運び込まれているという証拠でもあるから、何だか複雑だ。
「忙しいのは分かるけど、ちゃんと飯とか食べてるのかなぁ」
 そう一人ごちて、階段を登って鍵を取り出した。
 パチリと部屋の電気をつけると、買ってきた食材を冷蔵庫の中へと入れる。
 小学校の頃からは鍵っ子だった。
 母親は病院に勤務していて家に帰ってくるのは不定期だったからいつも一人だった。
 でも寂しいとか思ったことはないなと、あらためて近所の力というものをは実感する。
 お世話好きの大家さんのお陰もあって、周りに支えられて頑張ってこれたから。
 中学一年から二年に掛けての反抗期が一番酷くて、今は随分落ち着いているけれど、でも顔を合わせれば気まずい空気がそこに流れてしまう。
『好きなことを追いかけるのはいいけれど、あんなものを追いかけるのは母さん、どうかと思うわよ』
 そう言われたから。
 だから、理解はしてくれているけれど、納得はしていないようで。
 なんとかしたいって思ってるのに、上手く伝わらない。
 でも、最近それでもいいかって思うようになっている。
 母と子でも、所詮は違う人間だから。同じなんて、有り得ない。
 そう思ったら、最近は少し楽になった。
 そして、そんな自分を振り切るかのように約束の時間までまだ少しあると見たは、携帯を取り出してメールを打つと冷蔵庫を開けて卵を取り出して何時に帰ってくる分からない母に対してご飯を焚き卵焼きを作って置いて手紙を書いた。
『メールで書いたとおり、ご飯炊いてます。あと卵焼き。冷めていたら温めて食べてください。あと、冷蔵庫にサラダもあるよ』
 小さい頃、よくこうして料理がテーブルに置かれてあったから。
 それをただ、一人で食べる。
 最初は寂しかったけど、大家さんが呼んでくれるようになってからは独りの寂しさは随分和らいだ。と同時に、他人に対する遠慮を知った。
 ま、仕方ないけどね。
 暗くなった自分の考え
「さてと、じゃ今夜の用意して連絡して行きますか」
 とワザト明るく言う事で気を取り直して独り言を言うと、今からの予定の準備に入った。
 次に家から出てきたとき彼の服装は、この暑い中何故そんな厚着なのかと疑問を浮かべるのに十分な茶色の長袖を着ていてその肩に掛けているのは黒のかっちりとした作りのバッグだった。
 そしてその黒のバッグは、以前見たバッグと同じものだった。
 そんな硬めのビニールで出来ているのだろうカッチリとしたバッグを肩に掛けアパートの階段を下りたところでが携帯をかける。
 その表情は、街灯の明かりでハッキリと見ることが出来た。
 とても、嬉しそうな表情をしている。
「あ、です。……はい、……はい。じゃアパート前で待ってます。はい。先生、ありがとうございます」
 
 彼からその名前が出るのはこれで二度目。
 気に入らない。
 相手との電話を切って、車が来るのをソワソワした様子でが待っている。
 その様子が、気に入らない。
 だから、意を決して、男は彼の前に向かうことにした。



「はい。……うん。予定通り降ろすのは裏手でいいのかな。……うん。じゃ、アパートの前で待ってて迎えにいくから。それじゃ」
 跡部の弟であるから電話が掛ってきて、彼と話ながら茶色いシャツの腕のボタンを締めているに声を掛けたのは眼鏡をかけた一人の高校生だった。
、行くんですか」
「うん。と言っても、特に周辺に迷惑が掛かる夜間だからあまりやりたくないんだけどさ」
 ソファ座りながら問い掛けてきた彼を振り返りながら苦笑いして答えるのはと呼ばれた物理の……いや、今は大尉といった方がしっくりくるだろうその人だった。
 その質問をしてきたか彼の表情が珍しく不安そうなのを不審に思ったが、がバッグを持とうとしたその手を止めてソファから起き上がり、近づいてきた彼を見上げて聞いた。
「どうしたの国。なんか暗いよ」
「俺も、行っていいですか」
 さっきから嫌な予感が拭えない。
 だから同行することを願い出た。
「いいけど、来るなら虫除け持っていった方がいいよ。蚊がうようよしてるから。は慣れてるけど、君は慣れてないだろう」
「はい」
 きっと、尋ねた国と呼ばれた少年の不安なんて察していないのだろう彼の声に、それでも少年は黙って従う。
 こう言うときの的確さは、本当に感心する。簡単に準備をしていた物の中に、確かに虫除けは入っていなかったから。
 そして駐車場から車に乗り込んだその時、再度の名前で電話が掛ってきたらしくが珍しく
「二度目?」
 と、少し不審に思ったのかそんなことを言った。
『……』
 の顔が変わるのが、助手席からでも分かった。
 そして、携帯を続けざまに掛け始めて、彼は英語で相手と話し始めた。




 誰かから、声が届いた。
、おいで」
「?」
 名前を呼ばれてゆっくり振り向くと、黒の半袖パーカーとジーンズを着たの一人の耳付き男が立っていた。
 疑問に思ってが不可解な少し警戒の色を顔に浮かばせながら男を見る。
 だが男はそれに頓着せずに再度に告げた。
、ついておいで」
 と。
「な……」
 見も知らぬ男が、自分の名前を呼びそして足が勝手に動くという異常事態には驚いた。
。その名前を支配する。そして、俺を支配してよ
 なッ?!
 驚いているをよそに、さらに男は訳の分からないことを言い始める。
「出来るならこんなことしたくないんだ。でも、俺以外の奴に懐くのは許せないから。だからいいよね。
「?」
 あまにの疑問の多さに質問の言葉も出てこない。
 何故この男が自分の名前を知っているのかは当然のこと、何より分からなかったのは、コイツが何を言ってるのかサッパリ訳が分からないということだった。
 分かるのは、このままこの男についてけば確実に先生に迷惑が掛かるということ。
 そしてそれは、滅多に撮りに行けない夜間の撮影を逃すと言うことでもあった。
 渋る母親を説得して先生に頼み込んで、必死の思いで取り付けた約束だった。
 そんな努力が、こんな突然現れた変な奴に全部パァにされる……何なんだ一体……
 沸々を沸きあがるのは、ただの怒りじゃない。
「あのさ」
 声は出せるみたいだ。というよりも、勝手に動いているのは足だけのようで、手などは割と自由に動かせるようだった。
「ん」
 男が振り返り、返事をする。
「なんでこんな状態になってるのかは後で聞くけど、とりあえず俺、あそこで人を待ってるんだけど」
 さっき連絡したらすぐ迎えに来るって言われた。
 だから車が来るまで待ってないと。
 と、随分アパート前から離れてしまったところで目の前を歩く男に告げる。
 が。
「人ねぇ。ねぇ、はその人と俺とどっちが大切?」
 などと、やはり訳の分からないことを聞いてくる。
「ハァ?」
「だから、はその人と俺、どっちが大事なのかって聞いた」
 顔が疑問符で一杯になっているに、男が再度問い掛ける。
――どっちがというより、その人が連れて行ってくれるフェンスの裏手が大事なんだけどな。
 そう思ったが、しかしそこまで言う必要はないと判断したは手っ取り早く
「その人」
 と答えた。
 今回逃せば、次いつ行けるか分からない。
 それに迎えに来るって言ってたし……そうだ。携帯。
 足は勝手に動いてるけど手は大丈夫のようだと、先ほど確認したはバッグの中から携帯を取り出してリダイヤルボタンを押した。
 こんな訳の分からない、足が勝手に動くような暗示だか催眠だか知らないが、そんな怪しいものを他人に掛けてくる十分に怪しい男からはサッサと逃れないと。
 そう思って。
 だが男は甘くなかった。
 つかつかとに向かって歩み寄ってくると、リダイヤルされた携帯をその彼の手からサッと奪い取ったから。
「ちょ、返せよ!」
 あまりの突然のことにの声が大きくなるが、直ぐに周囲に視線をやって大声を上げてしまった自分を羞じた。
「あのって人とはどういう関係?」
 と、携帯の画面を見ながら男は質問してきた。
「はぁ?」
 やはり男の意図が掴めず、は『何言ってんだこいつ』という表情で男に返したが、男は再度聞いてきた。
「ねぇ、どういう関係?」
 と。
 これは、答えた方がいいのだろうか。
 しかし、どういう関係かと改めて問われたらはこう答える他なかった。
「どういうって。ただの先生だよ」
 だがそこに何かを感じ取ったらしい男は、
「先生。の割には、随分親しげだったよね」
「何だっていいだろうが。って、それよりも俺これから予定入ってて忙しいんだけど」
 今日のこれ逃したら、次いつあるか分からない。
 だからこそ、チャンスは逃したくない。
 っていうか、なんだコイツ。
 と、不信感と警戒感丸出しでが男の顔を見上げるて睨むようにして見る。
 男と言っても見立て跡部と同じかそれより一つ上くらいの耳付きの男だったけれど。
 それにしても、コイツ一体?
「これ、リダイヤルすればそのって奴と話せるんだよね」
「ちょっと待てよ。お前何勝手に人のもん使ってんだ」
 冗談じゃない。とばかりに男から携帯を奪い返そうとするが、あっけなく交わされた。というより、足が動かない。
 そのことの方が、を驚かせるのに十分だった。
 コイツ一体俺に何をした!
「歩いてついてきてね。今からその先生、やっつけるんだから」
「意味わかんない」
 心の声がそのまま出た。いや、だってそうだろう。
 一方的に人のこと操っといて、おまけにあの先生をやっつける?
 その時、車のライトがこっちに近づいて来るのが見えた。
 先生?
 そう思ったが、その車は二人を通り過ぎていった。
 まだ来るのには時間が掛かるか。そりゃそうだよな。電話したのさっきだし。
 と、少なからず落胆していると男が、もうこれで何度目か分からない意味不明なことを言ってきた。
に意味分からなくても、俺が分かればいいの」
 なんて、男がやはり理解・意味共に不能なこと言ってる間にも、電話が繋がった。
に、手をだすな」
『……?』
 電話の向こうで困惑している先生の顔がありありと浮かぶ。
 きっと自分と同じく『意味わからない』といった状況だろうから。
アトガキ
巡空桜花
2023/07/07 書式修正
2009/07/01
管理人 芥屋 芥