少年の握るナイフの切っ先が、服を破りその奥にある肉をえぐる寸前で止まっている。
後ろを向いた銃口が弾丸を発射するギリギリのところで男が握る銃の引き金を引く指の力が止まっている。
二人の時間がまるで止まったかのように、静寂な場がそこだけに降りている。
しかし時間は止まらない。
既に事態や時間は既に前に進んでいるのに、そこだけまるで時が止まったかのような静寂さとそれに相反する緊張感が、その場を包んでいた。
その手にナイフを握り、服に少し穴が開いた程度で停めているのは既に守られるべき存在ではなくなった未成年の『大人』の子供。
そして、それに対峙しそんな子供に銃口を向けているのは既に成人し、守られるべき存在であることの証である耳も既にない、生粋の大人のロシア人の大男だ。
二人はしばらくその体勢のまま動くことはなく、時が止まったその場所にまるで縛り付けられたかのようにまるで息一つしていないのではないかとさえ思えるほどにピタリと体を止めたまま動かなかった。
やがて事態を先に動かしたのは、少年の方だった。
「……」
男に何事か呟き、服に刺さっていたナイフをそのままスッと引き抜きそのまま体を男から少し離すと一つ小さく、本当に小さく息を吐いたのが分かった。
そこでようやく、男の方が口を開く。
「
。俺の考えは少し違うがな」
若干同意しながらも異を唱えつつ男が銃をホルスターに収めて言うと、そこから一歩下がって彼を見る。そんな男の様子から察したのか、少年が再度口を開いた。
「同じだったら怖いだろうボリス軍曹。それにしても、そろそろ作戦も終わりかぁ。いい晩だからこのまま朝までやっていたい気分だけど」
少し悔しそうに言いながらも空に登る月をぼんやりと見上げるその姿は、さっきまで銃を向け合っていた人間と同一とは思えないほど穏やかだった。
かと言って彼は二重人格などではなくて、そう。雰囲気を変えられるのだ。
それは恐らく彼がアチラの世界とこちらの世界を行き来して身に付けた処世術の一つなのだろうが、それにしては、とボリスは少しだけ彼に関心を寄せる。
そんな関心に気付かないまま、
は言葉を続けていく。
「しっかし、さっきの弾の数から考えてどっちかがくたばったかもしれないね」
先ほど感じた弾の数は七発だった。
その内訳までは分からないが、それがマトモに入っていれば人一人殺すには十分な弾の数だと
は思う。
少年の握るナイフの切っ先が、服を破りその奥にある肉をえぐる寸前で止まっている。
後ろを向いた銃口が弾丸を発射するギリギリのところで男が握る銃の引き金を引く指の力が止まっている。
二人の時間がまるで止まったかのように、静寂な場がそこだけに降りている。
しかし時間は止まらない。
既に事態や時間は既に前に進んでいるのに、そこだけまるで時が止まったかのような静寂さとそれに相反する緊張感が、その場を包んでいた。
しかしそこまで心配していない様子なのは、彼らのうちのどちらも死んだ感触がしないからなのだが、それでも
はボリスに聞く。
そんな確信があってか、その言葉の内容とは裏腹に彼の声は冷静そのものだった。
それは自分にここを任せたのは自分たちの上官でもあり仲間でもありしかも繋がりのある相手からの命令だからか、それとも今更自分たちが現場に駆けつけたところでどうしようもないことが分かっているからか。
二人の様子からはそのどちらも判断をつけられないが、それ以上に何かがありそうでもありまた全く何もないようなそんな微妙な雰囲気があって、しかしながらさっきまでとは違う空気が確かに漂っていた。
それにしても、さっきの戦闘は一体なんだったのかという疑問が浮かべられるほどに、先ほどまでこの辺りを覆っていた殺気も殺意も既に二人からは全く窺い知ることが出来ないほどに、彼らは平然とそこに流れる微妙な空気の中に立って会話をしていた。
それは、相手を殺すことができれば上々、例え殺すことは敵わなくても言葉での戦闘をお互いに抑えることが目的だったからだろうか。
お互い命令以上のことはしないし、また今はその命令は無効になっている。戦線が混在し指揮官が離脱し部隊が撤退している以上、自分たちの仕事はそこで終わりだからだ。
今回の命令は相手のSSを抑え込む。
たったそれだけのためにここに投入された自分たちだから、例え先ほどまで闘っていたとしても直ぐに相手に対して関心を失えるのもまた、二人が冷静な証拠だった。
「それはないな。この大地に倒れたのならすぐに分かる。それはお前も同じだろう
」
その答えに満足するとニヤリと笑って、見上げていた月から視線を外しボリスに向けると
「まぁね。さてと。そろそろ両軍撤退してるかな。ボリスさん、俺行くわ。んじゃ、バラライカによろしく」
雰囲気を変えるようにして言うと、そのまま足を動かして去ろうとするその後ろからボリスが伝えてきた。
「
。さっきの銃弾の内訳だが、どうやらウチの大尉が三発、お前のところの張が四発だそうだ」
その言葉にピクリと体を震わせながらもボリスに背を向けたまま「ありがと」と少し硬い声で礼を述べると
は直ぐに元に戻り、別に急いでいるわけでも鉄火場に立った自分の相棒を心配している様子もない至って普段通り様子でその場から去っていく。
やがて相手の気配が消えきったところでボリスは自分の体の力を抜くように一つ息を吐くと、先にこの場から消えた
と同じように、その場から立ち去って行った。
軍曹を誘い出したあの場から立ち去ってしばらくした道路の途中で
は自分たちと同じ人間にしか見えない糸を辿って歩いていきながら今日の抗争のことを考えていた。
上で動いていた情報を知りたいとは思わないが、それにしても姉御は今回のことをどう思っただろうな、と
は考える。
戦場ではあぁいった部隊は必要ないとまで言い切ったあの女は、今も変わらずに使われている自分のことをどう思うのだろう。
彼女ならば、今回のこの裏で起こった戦闘は自分とは違う別の見解から『どうでも良いようなことでもあり、どうでも良くないこと』だとでも思っただろうか。
それとも、張が引きずり出したから乗ってやった。とでも思っただろうか。
いずれにせよ、あの二人が立っている自分が立てない位置で何が決定し何が起こっていたのかは知らないし興味もないが、この街であの二人が抗争をする場合、わざわざ鉄火場に立たずして決着を付けることも可能だったハズだ。
しかし旦那はそれを選ばず、死人が出る銃撃戦を選びまた、バラライカもそれを選んだ。
だが不確定要素が多分に出てくる戦闘は、本当にどうなるか分からない。
お互いに使わないという保証や信頼がどこにも無い以上、備えは万端にとの理由から自分は呼ばれたわけだ。と月夜の晩に起きた今回の抗争が終って
は思う。
しかも、お互い元ではあるが正規軍だった人間だ。
昔ならば確かに条約・軍紀は在ったかもしれないが今はその制約がない。
そんな人間が行うイメージでの戦闘がどうなるかくらいは闘う前から目に見えている。
武力でも、またお互いが言葉の兵士だと分かっている。そこに抗争という要素が加わってできた不確定要素。その力の均衡を量るために旦那が呼んだ二つの駒。
表の駒が組織の武力ならば、裏の駒は自分だろう。
その表の鉄火場にあの男が立つならば、俺の立ち位置はそこにはない。
そして今回は正にソレだった。だからこそ俺はあんたの一番後ろに立ったのに!
憤りつつも、それに相反する思いが頭をよぎる。
でも俺は今日、あんたに何も出来なかった。
あんた言われたこと以外、俺は何も出来なかった。
きっとその体に当たったのだろうバラライカの撃った四発の9mmに、何も干渉できないままあんたの体に食らわせてしまった。
などと、浮かんでは消える思いを、なるべく冷静に考えつつ歩いているとそこは病院ではなく一つの家が見えてきて思う。
――隠れ家(レストハウス)か。ってことは、病院に行ったのは彪かな。
と、その家の中から漏れる部屋の明かりを見上げて
はそのまま玄関のドアを叩いた。
中から出てきたのは三合会の誰かで、彼は黙って付いて来いとばかりに顔を僅かに動かすと家の中に戻っていくその後ろを付いていく。
男がコンコンッとノックして、中から許可の声が届く前にドアを開けたのは
だった。
「入りますよ、旦那」
中にいる相手に無断で部屋に入った
が見たものは、麻酔が効いているのか死んだように眠る男の姿で、案内してきた男が音も無く後ろでドアを閉めるのが分かる。
その音を後ろで聞くと、彼はそのまま男が横になっているベッドの脇にある椅子に音もなく座って力ない声でポツリと呟いた。
「張さん、あんたはバカだ。大バカだ」
そんな言葉と共に体の緊張が解けるのが分かって、
はこんなにも緊張していたのかと自分で自分の状態に少し驚くと共に、やはり出てこなかった想いをその心にスッと隠した。
彼の抗争に関わっていたはずなのに、怪我をさせたことをすごく悔やむ。
また、関わっているのにも関わらず、見えないところで事態が動いたことを悔しいとも思うが、しかしこんなのはもう慣れてる。
慣れすぎてる。
しかもそれが分かっても、相手の前で取り乱すことが許されない大人の世界。そこに首を突っ込んでいるのは自分だし、いや違う。首を突っ込む以前の話だ。
それはあの時からの習慣というか自分に染み付いてしまった消しようのないモノで、ここでは随分と薄らいで見えるらしいソレは、どうやら日本の同級生には濃く映るらしく、友人と呼べる人間は居るにはいるけれど、親友は……
とまで考えて、一人思い当たることに気が付いた。
そういえば、アイツ……
と、国外にいる状態の
には珍しく、彼は不意に日本のことを考える。
半年の一般生活訓練期間を経て、初めて学校というところに通った自分に色々なことを教えてくれた担任の先生。
金髪で、おまけに耳が無いからと自分のことを遠巻きに見ていたクラスの人たちの中にあって、一番最初の一歩を踏んで近づいてきた親友と呼べるならば、きっとそうだと言えるあの男。
アイツなら、今の自分の状態を話してもいいだろうかと思えるが、反面怖いとも思う。
だけどもし、あいつに話しても良いと上の許可が下りるならば、話してみようか。
こんな迷いは、今まで無かった。
こんな憂いは、今まで感じなかった。
あの名前のもう一人の持ち主に会うまでは、こんな感情が出てくることもなかったのにな。
と、一年前の任務で出会った一人の少年のことが最後に頭に浮かんでは消えていく。
不意に浮かんだ思いを払拭するように少し頭を振って再び張の方に視線を向けると、その目が薄ら開いて自分を見ているような気がして呼びかけた。
「旦那?」
しかし反応はない。それでもしばらく彼を見ていたが、やがて気のせいかなと思いなおし再び考えに没頭しようとしたところで急激に眠くなってきて、トサリと彼の眠るベッドに頭が落ちて視界が暗くなる。
緊張が解けた所為なのかな。やばい、眠い。
彼を呼び出し、言葉での戦闘領域の中お互いの言葉を封じて銃撃戦を行う。
たったそれだけの戦闘だったのに、今の俺には相当キツカッタらしい。てか、今ここで眠ると旦那の迷惑に……
そう思ったのを最後に
の意識が、落ちた。
目が覚めると、金色が視界の端に映ってそいつが誰なのか直ぐに理解した。
その頭を痛む体を抑えて撫でると、僅かにそいつが身じろきして応えてくるのを見るその顔は、この男の普段の表情からは考えれないほど穏やかだった。
まだガキのコイツには、少し無理があったか。
と、少しだけ反省の意をこめながら触れたその髪の毛にスッと指を通す。
今回の抗争の前線で傷を負った自分の元にコイツは急いで駆けつけてこなかった。
それは、任せた盤上でこいつが冷静な態度を取りつづけたことを意味するが、それによって精神的に随分無理をしているようだ。などと思いながらその金色の髪に絡めていた指をゆっくりと外すと、男は直ぐにいつもの表情に変わる。
「……旦那」
僅かな安息から目が冷めたらしい
がそう言いながら顔を上げるその顔は、いつも見るそれとは違って不安そうなそれで張の笑みは少しだけ深くなる。
が、そんな張の表情に気付くことなく
は
「ごめん旦那。俺何も出来なかった」
と、真っ先に謝った。しかし
「お前、何かしたか?」
と、まるで意に返さない様子で張が言うから、益々
の表情に不安が宿る。
「だって俺……あんたが……」
下を向き、泣きそうになりながら言うその頬に張が手を伸ばしゆっくりと触れていきながら、すでにそこに無いはずの耳があるような錯覚に囚われた。
それは
が今よりずっと子供だった頃の、初めてこの男に会ったその時からすでに無かった『子供の証』
だけど今の自分には、既に失っているはずのそれが見えるように思えて、その不思議な感触に張は少しくすぐったい思いを持った。
彼の、十代になる前に落としていたはずの耳がついた姿はまるで金色の猫のようにも見えて、やはりお前はまだまだガキなんだなと思いながら張は痛みを押し殺して、口を開いた。
「お前、案外簡単に泣くんだな」
その言葉に、下を向いた頭が更に下を向いて小さな声で
「泣いてない」
と意地を張ってきたから、張は「こっちを向け」と
に顔を上げることを強要すると「やだ」と僅かに首を振って抵抗した。
だが「顔を上げろ、
」と言った二度目の言葉は怪我をしているとは思えないほどに強くて、抵抗を諦めた
はゆっくりと男の方へと顔を向ける。
「やっぱりな。そこまで泣きそうな顔するならサッサと泣け。この強情野郎」
その言葉に、
の表情は本当に泣きそうに歪むがついに涙を見せることなく、その代わりのように体が小さく震えだす。
「……ごめん……なさい」
震える声で小さく呟いたその姿は、いつもの彼からは想像できないほどに弱々しかったからつい、言うはずの無かった言葉が口をついて出た。
「お前の所為じゃない」
そう。
今回はコイツの所為じゃない。
銃を抜いたのも、弾を撃ったのも、またソレがお互いの体を貫いたのもこいつの所為じゃない。
は、ただ保険のために呼んだ自分の持ち駒の一つだ。
ならば保険は保険らしく堂々としていろと言いたいところだが、そう簡単に感情が納まらないのはきっとこいつが根本的な部分で酷く人間らしいからか。
それとも、つい一年前に出会ったあのガキの所為か。
確かに引き受けた名前が『merciless』ならば、感情に変化があっても何らおかしくはないが。
そんな張の思考を遮るように
「だけど俺……」
と後悔の様子を示した
の頭からは、さっきまで見えていた幻の耳は消えていて張は
「グダグダ言うな。傷に響くだろうが」
と言いつつ頬に触れていた指の親指をその唇に寄せて、『黙れ』と云った。
これ以上こいつに責任を取らせたくない、そう思ったのも確かだがそれ以上に今の
は自分に向けるべきではない言葉を言いそうだったから、張はその前に彼の言葉を遮った。
無事で何よりとか、生きてて良かったなんて言葉は、今の俺には必要ない。
過ぎ去って初めて分かる。
こいつの前に、もう立てないと思ったこと。
それが何より……
そこまで考えて張は自らの考えを切ると、それらを振り払うように
の耳元で何かを、告げた。
大事なことは常に先回りするくせ、それに気付くのはいつも後だ。
全くもって人生は不完全で、大事なことは常に見えない雑踏の中……だな。
rec -017...
Waying@FrontNoizy-03