その雪に溶けていきそうな背中を、彼はただ黙って見ていた。
何もない白の平原を、ただ真っ直ぐに見つめている彼の視線のその先にあるのは果たして何なのかは自分には分からない。
しかし彼はその平原の向こうをまるで睨むようにただジッと見つめていた。
声を掛けるべきなのか、それともこのままこの場を去った方がいいのか、その判断をつけられないまま、しかし確実に時を刻みながら、彼はその場に立っていた。
ザッという音がして彼が振り返ると視線が合い、そのまま彼がこちらに向かって歩いてくるのを静かに見るともなしに見ていると、目の前に影ができたことに少し驚いて顔を上げると、目の前の影が少しだけ色濃くなった。
「……っ?!」
唇が触れたのは一瞬で、次の瞬間には視界が反転していた。
「なっ!?」
余りにも突然な彼の行動に驚いて顔を上げると、そこに見えたのは上官の無表情な顔で、そんな彼の顔にの心に恐怖が宿った。
「ちゅ、中尉?」
何をしようとしているのかは察しがつく。が、しかし……こんな雪の上で?
そう思って背中に神経を集中させると、そこに当たっているはずのその感触や温度が、雪のソレではないような……?
白い雪だと思っていた。しかしそれは間違いだったようで、いや違うな。先ほどまではそれは確かに雪だったのだが……
一体どこで変わったのか?
そう思った時、唐突に悟った。これは夢だと。ならば自分の目が覚めるだけでよい。それに、こんなフザケタ状態で凍死はご免だ。
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InversionPlace
夜は冷える。
突貫で立てた天幕の中にあって、眠っているような起きているような中途半端なまどろみの中、天幕の外で誰かが歩くような気配を感じた。
ただでさえ先ほどあんな夢を見たばかりだというのに、と半ばげんなりとした気持ちでその人物の動向に気を配っていると、その人物は迷うことなく天幕の隙間から手を入れて顔をのぞかせてきた。
「おはよう」
暗がりの中、顔が歪むのが自分でも分かる。
「……御忍、ですか。大尉殿」
目的なんか問わず、ただ、現状を彼に言う。
「そんなイヤな顔をするな、少尉」
あの人似の顔でそんな顔をされては例え代わりだとして、いや代わりと認識しているのは自分だけで、確かに彼らは別人なのだが、それでも似ている。
「はいはい」
それだけで分かったのか、幾分砕けた口調でが答えてそのまま立ち上がると、そこから歩き出した彼の後ろをついて歩いていった。
「時間までに済ませてください」
云われずとも分かっている。その命令を下したのは正に自分なのだからと、軽口を叩くの言葉にいささかムッとした表情で顔を上げ、彼の視線に自分の視線を合わせて言った。
「分かっている」
まともに絡んだ彼の視線は正に冷静さそのもので、雪の冷たさを思い起こさせるその目の色が新城にとっては気にいらない。
死と隣り合わせに居つつ、その一線を常に越えたがっている、死に対して羨望の情すら持つこの部下はあの人に似た容姿を持っていた。
それが気に入らない。
まるであの人が死を望んでいるかのような錯覚に捕われる。まるであの人がこの場にいるかのような感覚に自分を陥らせる。
やはりお前は気に入らん。
「……ぐっ」
苦痛に歪む表情に仕方がないという言葉が浮かぶのは、彼が自分にとってどうでもいい人間だからかと、そう思いながら続けていると手の甲に痛みが走った。
「っつ」
何故と疑問に思いつつそこに視線をやると、自分の手に誰かの手が覆い被さっていて、おまけに力が入っているようだ。
「なんだ。そうか」
自分はまた無意識に絞首をしてしまったのか。と、残っていた自分の中の冷静な部分がそう判断する。と同時に、自分の中にあった気付きたくない思いにも気付いてしまった。
いくら気に入らないと思っていても、無意識はそう思っていないということに。
全く、困った性格だな僕も。
と自分に苦笑しながら、その首から手をゆっくりと放していくとそれを察したのか、自分の手に込められていた力が少しずつ引いていき、最終的にその手はゆっくりと簡単に敷き詰められた毛布の上へと置かれていった。
「てっきり回してくるかと思ったのだがな」
最初の頃に比べて天幕が二人の熱で暖かくなっているから、既に吐く息は白くなくて、やっと居心地が良くなったか。と、心の冷静な部分が周辺を分析する。ま、眠れなくとも休めただけで十分だが。
それにしても、何故上官の首にわざわざ腕をまるで強請るように回さねばならないのか、疑問に思いながらもは答えた。
「そんな野暮なことはしません」
やはり気に入らん男だ、コイツは。あの人ならば……いや、あの人は保胤様のもので、幼い頃以外触れたことがないから、こういう時にどんな顔をするのかは知らないが、きっとお前のような……
そこまで考えて、新城はの身体から己を引き抜いた。
全く持って気に入らん。この僕を含めて。
「身体は暖まりましたか?」
至って淡々と聞いてくるその男に、殺意すら湧く。それとも天然でそう聞いてくるのか? と、疑心が混じるが、今はそんなことをこちらが聞く状況ではないな、と思いなおしてその問いに答えることにした。
「おかげさまでな。少尉」
何事もなかったかのように天幕に戻ると、先に起きていたのか出入り口近くで座っていた漆原に声をかけようとして止めた。彼はこの前の村の襲撃から変わってしまった。
彼はただの実行者に過ぎにないというのに、そして、その命令の責任は大隊長である大尉にあるという、そんな基本的なことすら忘れ抗命しようとした。ただでさえ数少ない将校だというのにだ。
将校の天幕にいるのは、自分を含めて四人だけ。度重なる戦闘でこれだけしか残らなかったのだが、それにしてもそんな大勢死んだ数ある戦闘の中で何故自分がその死者の中に入っていなかったのだろうと心の片隅で未だに燻りつづける『死』への、憧れにも似た思いがよぎるが、考えたところで結論など出ないと、早々に心の中では結論をつけるとほぼ同時に、誰かの声が耳に届いた。
「非道の味はどうだった?」
容赦も何もない言葉に、一瞬反応しようかどうしようか迷ったが、しかしながら口は動いていた。
「そんな低俗なことしか浮かばないのか貴様は」
「うるさい。あの人は……」
ったく、面倒な男だ。とは軽く息を吐くと彼に問うた。
「非道の戦闘は気に入らないか。ならばどんな戦争がお好みだ、貴様」
「うるさい! お前はっ!」
「『戦争』を選ぶか。大した贅沢だな漆原」
そう言うと彼の表情が変わった。この時の自分の目は、どこまでも冷徹な目をしていただろうなと、自分でも思う。
「……っ」
反論できずに顔をゆがめる漆原に、それ以上言う事はないとは天幕の奥へとゆっくりと足を進め、そして毛布に包まった。
「時間まで起こすなよ。こっちは『疲れてる』んだ」
そう言うと、はそのまま目を閉じた。
死に場所は直ぐそこにあるというのに、その一線を越えられないのはきっと自分の首根っこをあの人が握っているから。
どれだけ非道だろうと、あの人は自分を死なせるつもりはない。
いや、自分たち全員すら死なせるつもりはないだろう。
随分屈折した思いだが、それに気付かないお前は、きっと分かり合えない対極の位置にいるからか。
どうにしても、もう、どうでもいい。しかし、そんな気持ちで戦っている自分が未だ生き残っているとはな、皮肉なものだよ、全く。
アトガキ