手首に唇を落すその意味を、この人が知らないはずは無い。
ベッドから立ち上がろうとするこの人の手を思わず掴んで、その手の甲に唇をソっと落とす。
そしてその手をひっくり返して、今度は手の平にそしてそのまま手首にも、同じように唇を落す。
「カイト?」
ギシッとベッドの軋む音を立てて再び座りなおした彼マスターの、少し慌てた表情がカイトを誘う。
何故こんな思いをこの人に持つのか、なんて。
そんな、自分でも戸惑うような複雑な想いを、その行為に込めて。
でもきっと、原因を作ったのは彼女。
それはつい一時間程前彼女、メイコがここで言ったあの言葉を聞いたから……だと、思う。
req-no.009...
voice of silence
「私ね、カイトに少しだけ嫉妬してるのかなぁ」
夜のひと時は、忙しいマスターと二人で過ごす貴重な時間。
だが、その約束の時間が過ぎてもメイコは彼の部屋から出てこなかったから、カイトが彼女を呼びに彼の部屋の前まで歩いてきたその時、ドア越しに届いたメイコの本音に思わず全ての動きがそこで止まったんだ。
だってメイコは、そんなこと一言も今まで言ったことがなかったから。
「だって、カイトはマスターを呼んだんでしょ? でも、私やミク、リンもレンもマスターが呼んでここに来たのに、カイトだけ逆なんて、って。そう考えたら、ちょっと悔しいような、そんな感じかしら?」
と、少し拗ねたようなメイコの声にドアの向こうに居るマスターがどんな答えを言うのか……なんて、そんな彼女の言葉へのマスターの返答を聞きたいようで、聞きたくないような。
そんな迷いがカイトの中に生まれ、しかし解消できなくてそのままドアの前で立ち竦んでいると彼女の言葉に答えるマスターの声が聞こえてきた。
「どうだろうなぁ。あの時、カイトのディスクを見たとき……あぁ、うん。なんかね。でもメイコ。それはカイトが呼んだ訳じゃなくて、上手くいえないけど俺が気になったの。だからその解釈は逆」
少し昔を思い出すようにして紡がれた言葉は、メイコの問いかけをやんわりと否定した。
「逆……ですか。でもマスター、それ本当?」
その答えに少し不満が残ったらしいメイコがさらに質問しようして、しかしそれを遮るようにマスターが
「本当。だから、ね。それと、もうそろそろ時間だから。0時超えてるし……それに」
ゆっくりと言い聞かせるように言い、一度言葉を切ってから改めて、
「カイト、そこに居るなら入ってきていいよ」
「え?」
と、ドア越しをまるで見えているようにマスターが自然に声を掛けると同時にメイコの驚いた声が響いて、次の瞬間には
「…・…マスタァ?」
と彼に対して少し低い声で苦情を言っているその表情は、恐らく真っ赤になってるんだろうな、とカイトは思った。
しかしそれには取り合わず、
「メイコも、そろそろ休まないと明日にってもう今日だけど、差し支えるよ」
と言って二コリと笑っている姿が、ドアをソッと開けると見えてきた。
そんなマスターにメイコが小さく頬を膨らまして
「むぅ」
予想通りに顔を真っ赤にしたメイコがマスターに向かってそう言ってる姿も見えて、
「メイコのまーけ」
なんて、冗談めかして言うマスターに
「あーあ、今回は負けかぁ」
なんていって、少し悔しそうな表情でそれでも笑顔でメイコが言うのが、なんだか少しくすぐったい。
だって、メイコにそんな表情をさせられるのは、そんな言葉を言わせることができるのは、やっぱりマスターだけだから。
僕じゃ……無理。絶対無理。
そう思っていると、体をこちらに向けて歩いてきたメイコがポンッ僕の肩に手を置いて、云ってきた。
――後のこと、よろしくね
と。
しかし口では
「おやすみなさい、マスター」
と顔をマスターに向けて挨拶している。
相変わらず器用だよね、って送ったら
――何言ってんの。あんたもできるでしょう?
という、少し呆れた様子の通信が入ってきたから、
――そうだね
とカイトは返す。
「お休み、メイコ」
そんなやり取りを知ってか知らずか、マスターがメイコに挨拶を返すと、そのままメイコは自分の部屋に戻っていった。
パタン……
と静かにドアが閉まり、代わりに残ったのが僕とマスターの二人。
マスターは、何も言わない。
僕は何もいえない。
なんだか、すごく気まずい雰囲気がそこに流れたけれど、それを破ったのはマスターだった。
「カイト。珈琲をお願い」
何かを払拭するように用事を言ってきて、それを流す。
でも、この部屋が気まずい雰囲気かどうかなんて、本当のところはよく分かっていない。
だって、僕たちの感覚は酷く脆くて察しが悪くて……あぁ、でもメイちゃんは全然違うから、この差は一体何なんだろう。
そう考えていると、再び彼がカイトの名を呼んだ。
「カイト?」
「あ……はい」
慌てたカイトが返事をし、そのまま部屋を出て台所へと足を向ける。
自分以外誰も居なくなった部屋で、静かに鳴るパソコンのファンの音とキーボードを叩く音だけが響く中、静かに声が響いた。
「カイト。珈琲は、ホットでいいよ」
と。
さっきからベッドの上で横になっているだけで、全然眠れないのはどうしてだろう。
そんな、眠ろうとせずにただベッドの上で寝転がっているだけのカイトに、がベッドに座りながら静かに声をかけてくる。
「眠れない?」
「……はい」
眠いのに眠れない。
そんな中途半端な状態の自分を少しイヤだと感じて、一拍遅れてカイトが返事を心配そうな表情で自分を見下ろしているに返す。
その答えを聞いて、
「じゃぁ、ココアでも作って……」
くる。
と答えようとした最後の言葉は、喉の奥へと消えた。
何故なら、ベッドから立ち上がろうとしたの手を、カイトが掴んできたから。
「どうしたの」
無理に引っ張って引き離してもどうかと考えたのか、立ち上がることを断念して再びベッドに腰を下ろしたが少し驚いた声でカイトに問い掛ける。
その問いにカイトは答えることなく、ただ静かに首を小さく振って答えて無言の返答をに返すけれど、彼は再度聞いてきた。
「どうしたの」
と。
今度はその声から驚きが消えて、いつもの声で言ってくる。
それに観念したのか、カイトが少しその表情を曇らせて
「なんでもありません」
と否定の言葉を返すけど、そんな言いたいことを堪えるような表情のカイトには諦めた様子で一息小さく息を吐くと
「ま、いいや。言いたいときに言ってくれれば」
と言って、話を打ち切ってしまう。
「マスター?」
「だってカイトってさ。そういうところは強情でしょ? でもそうやって我慢するところ、カイトの悪い癖」
「あ……」
言われて気付いた自分のことに、僅かにカイトが視線を逸らす。
確かに、そうかも知れないけれど。
でも……それは……
そんなカイトの様子をはワザと無視して、自らの要求を彼に告げる。
「手、放してくれるかな。俺まだ作……ぎょう……」
作業の途中だからと言おうとしたの言葉は、また途中で止まってしまった。
何故なら、カイトがそっとの手を引っ張って、その指に唇を落としてきたから。
「カイト?」
驚いたが彼の名を呼んでも、カイトのその行為は止まらない。
もしかして……これは……ヤバイ?
と、警鐘に似た思いをは持ち、やがてそれが当たっていることに気がついた。
それが少しずつ場所を移動しているということ。
そして指先と爪に軽く触れて、ゆっくりと指の付け根へと移っていき、指と指の間にソッと触れてきた舌に思わず体が揺れる。
「っん……」
心構えをしていたとはいえ、やはり弱い部分か……
そんな震えが伝わったのか、それとも彼が小さくとも声を上げ顔を少しだけ歪めたからなのか、カイトが少し視線を上げての方をジッと見上げてくる。
「なに?」
声に伝わる震えを極力抑えて、が問うその顔はほんの少しだけ、赤い。
それを見てカイトは少しその笑みを深くさせて、その問いに答える。
「なんでもありません。でも、さっきのマスターの声……」
そこで言葉を切って、そっと手の甲に唇を落とし
「少し、色っぽかったです」
といってその手をひっくり返し、今度は手の平にそしてそのまま手首にも、唇を落す。
「カイト、それは……」
驚いた表情を張り付かせたまま、の言葉がそこで止まる。
何故なら、それだけで彼にはカイトが何を望んでいるのかが、分かってしまったから。
彼のそんな行動に、どう反応していいのか分からないまま黙っていると、カイトが、動いた。
スッ……
衣擦れの音がしたかと思うと、ソッと手を引っ張ってくる。
それはにとっては予想外というよりも、出来るならば回避したかったことで、しかしつい一瞬前まで呆然としていたには、彼のその行動に対処できなかった。
それ以上に、引っ張力が……強い?
ドサッ
という音がして、次の瞬間には部屋の天井がの視界に入ってきて、自分が倒されたことを知る。
誰に?
決まってる。
この状況じゃ、カイトしか居ないだろう?
「ちょ……っと待てって……コラ」
天井を向いたにカイトがそのまま覆い被さってくる。
そんな状況の中、なんとかそこから逃れようとは体を動かしてみるが、如何せんカイトは、結構重いのだ。
まずい、これはマズイ。非常にマズイ。このまま流されたら、次に起きるのは確実に明日になる。
俺まだ仕事残してるのに!
そうは思えど、の心に迷いが生まれる。
何故なら、彼は既に意見を言ってきたから。
あからさまとは言わないけれど、それでも彼はその行動で、自分の意見を言ってきたから。
だから、後は自分が彼にどう応えるか。
答え……を出さないと……ダメなんだろうか。
ボーカロイド……に?
応えなくてもいいんじゃないのか?
だって、応えられるのか?
何かが外れたボーカロイドに答えを……『ヒト』として応えることの、言葉にできない思い。
でも、彼らを機械と思うことは結構つらいとは思う。
だって、やっぱり意思のある……モノだから。
「クソッ」
思わずついた悪態に、カイトの体が怯えたように一瞬震えた後その動きがピタリと止まりジッとを、さっきまで見上げていた状態から今は逆転して、カイトが見下ろしている。
その目を見て、は、一切の仕事を諦めた。
だって、辛そうで……
言葉がなくても、その行動で、そして目で静かに彼が言ってくる。
その無言の言葉に気付いては、自分の体に覆い被さってるカイトの頬にゆっくりと、自由になっている右手を伸ばしてソッと手を、当てた。
「お前……さ。あの意味……分かって……やったの?」
合い間合い間に紡がれる言葉は、荒い息と共に吐き出される。
「え?」
「だから、手首にキスする意味を、知ってたのかって……っ」
顔を上げたカイトが、声を詰らせ顔を赤くさせたままカイトを見るに、最初はキョトンとしていた彼の表情がゆっくりと、いつもとは違う皆の前では決して見せない類の笑顔に変わっていく。
その笑顔を見て、は確信をもった。
コイツ、知ってるな。
と。
しかしカイトが静かに首を振ってきたから
「とぼけんな。お前、俺がその意味知ってるって、分かっててやったろ」
と、クシュと前髪に手を伸ばし少し強く言ってみると、カイトの表情が少し曇り
「……ごめんなさい」
と言いつつ、腕を回してのの体にまるで縋るようにして抱きついてくる。
ったく。
甘ったれめ。
そうは思えど、振り払えない自分がいてひどくもどかしい気持ちになる。
だって、彼らが縋れるのは、自分だけだから……
確かにデータを変更すれば、自分じゃない誰かがマスターになれる。
けど、それはこのカイトじゃない。
だけどそれが一体全体なんだというんだろう。
熱で浮かされた頭が考える思考に呑みこまれそうになるのを、なんとか切ってはそんなカイトを見、そのままソッと彼の頭に両手を移動させて静かに言う。
「なんで?」
その声は、少し力が抜けたような声でそれに驚いたカイトが顔を少しだけ上げて、彼を呼ぶ。
「マスター?」
しかし、カイトが見たのは自分を見ている彼ではなく、どこか遠くを見ている彼の顔。
「なんで、カイトだけ?」
どこか虚ろな表情のまま呟くは、カイトの問いかけに答えることなく、やがてその言葉は、少し鋭いナイフとなってカイトの中のどこかを切りながらゆっくりと落ちていく。
何が、僕だけ?
僕だけ、『何』ですか?
ねぇマスター。それはどういう意味ですか?
答えを知りたいような、それでいてこのまま流したいような、そんな、機械にはないハズの迷いがカイトの中に生まれてくる。
あぁ。これが『迷い』か。
うん。ちゃんと分かる。
ねぇ、僕、ちゃんと分かります。
『迷い』も、はっきりとしないこの思いも。
でも、まだ……まだ足りなくて、どうしていいか、分からない。
シュル……
衣擦れの音がして、の手首に巻かれてあった青色の、カイトの髪と同じ色のマフラーがゆっくりと解かれていく。
「カイト?」
逃げないと分かっていても、それでも、不安は消えない。
それでも解いたのは、きっと、少し、自分で進みたいと思ったから?
それとも……
「……」
小さく、本当に小さくの名前をカイトが呼ぶ。
この言葉はきっと、届いて……
この想いの続きは希望だろうか、それとも自分からの拒否だろうか。
分からない。
けど……きっとマスターは、この言葉を、聞いたと、思った。
だけど、それには何も問い返すことなく彼が、聞く。
「何……か、不安か?」
と、そう言いつつクシュという微かな音を立てて、が自由になった左手でカイトの前髪をそっと掴む。
その問いに静かに首を振って否定を示すと
「言いたいこと、ほんとうにない?」
と再度、聞いてきた。
それに少しだけ顔を上げると、僅か上にの顔があって、そんな彼と自分の視線がゆっくりと合う。
そしてそのまま影が、ゆっくりと重なっていった。
この人の、こんな表情を見ることができるのは、自分だけ。
そして自分のこんな顔を見ることができるのは……この人だけ。
何故なら、尊敬も信頼も憧憬もそして愛情も、感情の全てがこの人に向かうなら、少しだけ芽生えた欲も、多分きっとそうだから。
だから、言わなかった。
マスターに対して行動で示すことは、僕たちボーカロイドにとってやっちゃいけないことだったのに。
行動で伝えるなんて……
それでも、言葉じゃなくて、別の何かで伝えたかった。
だから……
『マスター……僕は、貴方が好きです』
その言葉を、あの行為に込めた。
それを分かってくれたマスター。
それに応えてくれたマスター。
ソッとカイトがの手を掴み、口元に持ってきてその掌に再度唇を落す。
――お願い
そしてそのままゆっくりと、唇が手から離れないまま、ソッとその手首にも、ゆっくりと移っていく。
それは、無言の言葉。
行為で示す、彼らが本来持ち得ないはずの……欲
―――あなたが欲しい
アトガキ