「やべッ!」
 ビルから跳んだ時に、下にいた誰かの影の存在をは気付かなかった。
「ん?」
 と、下の男は上で響いた声を上げてからゆっくりと上を向いた。
 慌ててロープを持ち、ビルの壁に足をつける。
 それもぶつかるの寸で止めて……
 間一髪、どうやら自分は男の上に着地などという馬鹿をせずに済んだようだ。
 と、ビルの側壁に足をつけ、そして下にいる男から銃口を向けられていながらも、はそんなことを考えていた。
「あんた、なんでこんなところウロツイテンダ?」
 と、広東語で話し掛けてやる。
 ここは香港。
 広東語の方が通じるだろう、などと思っていると下の男から出たのは流暢な英語だった。
「お前こそ、ただのガキには見えないがな。ここがどこだか分かってるのか英国人? 香港の路地裏。俺たちのような人間が居ちゃ悪いか?」
 そう言って顎をしゃくるって見た視線の先には……



 あぁ。
 なるほどな。



「確かに。だがあんた、どう見てもサラリーマンかサツにしか見えないがな」
 と、リーマン風をふかした男にそう答えてやった。
Bad Game
「ここに、フリーの仕事屋が居るっていう話だが……それはお前のことか? 英国人?」
 と、最後の『英国人』だけは違うのだが、大体合っている。
「仕事屋ねぇ……」
 まるで公園でのんびり話すかのようにが答える。
 だが状況はそう楽しくはない。
 お互い銃を向け合い、そしての方が体勢的にも状況的にも圧倒的に不利だったからだ。
――ったく、懸垂下降なんかするんじゃなかったな……
 と、一瞬だけ後悔するが、しかし何となく『どう』やってもこの男に会うだろうというそんな妙な確信がにはあった。
 ま、どうでもいいが。
「それで? お前か?」
 男が再度確認してきた。
「だとしたらなんだ?」
 それは、認めたも同然。
「そいつをヤレって命令がきていてなぁ。お陰で休日返上で借り出されているところなのさ。ソイツに俺達の仕事を奪われちゃ堪らないっていうのが上からのお達しだ」
 男がそう言って煙草を吸う。
 その煙が気流に乗ってのところまで来る。
 香る、懐かしい匂い。
 三年前まで吸っていた、煙草の匂いだ。




 緊張が高まる。
 だが、二人共その『素振り』すら見せない。
(このガキ……場慣れしてやがる)
 辺りに充満する血と硝煙と煙草の匂いに加えて二人の間に横たわる、銃を突きつけ合う張り詰めたこの緊張感にも一切の動揺はない。
 普通のガキならば、慌てふためいて醜態を晒すところだ。
 そう思わずにはいられないほどの緊張感。
 だが張は直ぐにその考えを自ら否定した。
 『マトモ』なガキなら、そもそもこんなところには居ない、と。
 それにしても、目の前のガキはソレすら楽しんでいるかのような顔をしていたのが気になった。




「張! 何をしている! さっさと来い!」
 路地の表から掛った声に
「じゃなクソガキ」
 とヤケにアッサリと男が身を引いた。
 どうやらアレが彼の上司……か。
 と、僅かに見えたソイツの顔も覚えておく。
 そしてあの男の名も。
「張……か。覚えたぜ」



 ヒュ……
 そんな音がして血が吹き飛ぶ。
 だが、血流の向きまで考えられているため、自身には一切飛ばない方向へと血が流れ出る。
 とは言っても、大げさに血を流すわけじゃない。
 そんなことをするのは素人のやることだ。
 さてと、そろそろウルサイ連中が来る頃だ。
 それにしても、三合会っていうところは二枚舌なのか?
 俺に仕事を依頼しておいて、俺を殺せと命令してやがるとはな。
 ま、この業界。
 信頼と信用が第一だ。
 そしてその上でビジネスが成立するってもんだ。
 それに新しく広げようとする『手』の先が不安になるのは当然だ。
 そしてその捨て駒として俺に依頼が来たってことか。
 イヤになるね、全く。
 だが俺はこんなところでクタバルような、そんなヤワには出来てないんだよ。
 悪かったな、張さんよ。




「ッチ。一足遅かったか」
 踏み込んだ時既に、中にいた連中の始末は全て終わっていた。
 辺りには血の匂いが充満するばかり。
 だが、硝煙の匂いが……しない?
「こいつは……」
 下に転がっている死体にあるのは殺傷の跡。
 つまり、ナイフってことになるのか。
「今時白刃使い……ねぇ」
 関心したように一人呟くと、「引き上げだ」と言って部屋から出て行くその後を、更に下の連中が「はい」と答えて男の後を追うように立ち去っていく。
 それにしても、どうしてこうも……先回りしやがる?
 ま、んなことはどうでもいいか。
 とにかく、今はまだ上手く立ち回るしかない。




「さてと……ポイント4−8そして、3−9……」
 と、安ベッドの上に広げた数枚の紙を広げてが呟く。
 相手の殲滅まで後二手……か。
 少し時間を食いすぎたな。
 まぁ仕方がない。部隊が居ないんじゃ、この程度の時間経過は折込済みだ。
 さてと……
 それじゃ、手早く行きますかね。
 そう思い、その部屋からが出る。
 そしてまた、イタチゴッコが始まった。
 はっきりと姿を見せるのはまだ先だと思っていたのになぁ……
 ま、途中経過が少しその分だけ繰り上げになったということか。



 さて、これが吉と出るか凶と出るか……見ものだな。
 と、どこか冷めた様子で自分の今の状況を考えながらは相手を斬り付けていく。
 だが切られる方は堪ったものではないだろう。
 切りつける相手が、自分たちを『見ていない』などと知ったら……
 だが、そんなことは、には関係がなかった。



「クソ……なんだって手勢がやられてくんだよ!」
 三合会とはずっと均衡を保ってきたんだ。
 なのに『三合会』ではない別の誰かの所為でどんどんこちらだけがやられていく。
 何か手を打たないと、本当に潰される。
 しかしどうやって?
 手勢はもう四分の一にまで減ったこの状況でどうやって対処しろと言う?
 しかも、まとめ役の連中から殺されていっているから、それよりも『下』がどうなってるかなんて考えたくもなかった。
 とりあえず本部に手勢を集めて、一気にこちらで待ち受けるしか手はなさそうだ。
 そう考えて、彼は受話器を取った。
 こちらに向かうように電話するためだ。
「今からコッチに向かえ!」
 と、アジトに残っている部下共に命令を下す。
 だが、その電話は意図的に向こうから切られた。
 その瞬間、男はハッキリと察する。
『来る』……と。
 確実に来る。
 確実に奴はココに来る……と。
 この男とて、今までこの香港であの三合会と対等にやりあって来たのである。
 こう言う場面には、それはそれは数え切れないほど遭遇している。
 組織が潰れるときは、意外にも呆気ないのだ……ということをこの男は知っている。
 そして、今度は自分がそうなっただけの話。
 ただ、それだけだった。




 アジト周辺に警戒網を置き、そして自分は中にこもる……か。
 怯えた奴の考える典型的な布陣だな。
 そう思い、彼は双眼鏡をしまうとビルの上から跳んだ。
 トンッ……
 そんな軽い音をさせて彼はビルの側壁に足をつける。
 そして、そこからロープをたわませて勢いよく一気に中に入っていった。
 途端ガラスが割れ、大音響が響く。
 それに気付いた部下が一斉に中に飛び込もうとする……が。
「そこまでだ」
 と、黒ずくめの男の声でその動きも止まる。
「全く。ウチもよくこんな二枚舌を使ったもんだなぁ」
 と、その男はまだ自分を信頼していない上層部への不満を少しだけ吐いた。



「クソ……お前が……」
 完全武装の少年兵が目の前に立っている。
 ここに最初から居た部下は、彼が入ってくると同時に斬られて死んだ。
 充満する血と鉄の匂いにその部屋が除々支配されていく。
「ま、あんたには死んでもらわないと、俺商売上がったりなんだよね」
 そう言って少年が少し笑う。
「貴様……雇い主は誰だ?」
 大体見当はつくが……しかし、それを聞かれて答えるほどは馬鹿でも能無しでもない。
「誰でもいいじゃんそんなの。あんたは、ここで死ぬ。それだけさ。それにしても、さっき潰したのがポイント2−10。そしてここが1−11……リプルスティック、ワンワンワン。……まるで犬だな」
 相手を馬鹿にしたような顔で、微かに哂いながらが言う。
「テメェ……」
 頭に血が上ったか……転回点だな。
 冷静に彼はそう判断した。
「さて、話は終わり。以上だ」
 そう宣言して、がゆっくりとナイフを抜いた。
「抜けよ、おっさん」
 さっさとヤッてここから立ち去らないと、三合会が下で何やらやっている。
 ここに来られる前に片をつけないと、非常に迷惑極まりないことになりそうなのは必至だろう。
 そう判断したが、男が銃を抜く一瞬前に踏み込みを掛けた。
 そしてドンッ……
 一発の銃声が響く。
 いや、一発どころじゃない。二発・三発……と続くが、そのどれにもは捕まらない。
 そして彼の白刃が降り下りされ、銃を持つ男の手が手首ごと切り落とされる。
 ゴトリとイヤな音を立てて、銃を持ったままの手が床へ落ちる。
 一瞬、男は自分の身に何が起こったのか理解できなかっただろう。
 だがはその勢いを殺すことなく後ろに回り込むと、そのままわき腹を深くえぐるように刃を入れる。
  まるで踊ってるかのようなその姿に、一瞬男は目を奪われ……だが確実に急所を突いたの刃に、その視界はやがて真っ黒になり、倒れた。



「見事だ」
 そう言って扉から入ってきた男に視線を向ける。
「そいつぁありがとよ。張さん?」
 返り血を浴びるようなヘマをするではないため、血をふき取ったナイフをホルダーに仕舞いながらその声に僅かに警戒の色を滲ませつつも気軽を装って応じる。
 この男、確か警官じゃなかったか。
 といった疑問が頭をよぎるが、それが口に出ることはなかった。
 何故ならこの男が今、どちらの立場でここにいるのかは、犯罪を犯した者を捕らえようとしないこの状況で明白になったからで、この男が警察の中で何を行っているのかについても、には読めてしまったからだ。
 そして何よりも、この男がなぜ法の番人から破る側へと周ったのかなどといった個人的なことに興味がなかったから、が理由である。
 むしろの興味は、全く別のところにあった。男の方は気がついているのかは不明だが。
「それにしても、道理で……な」
「ん?」
 一人納得する張に、が疑問の声を発する。
「『Winged』。この名を知らない訳じゃねぇだろう?」
 ゆっくりと発せられた張の言葉にの表情が変わる。
――あぁ、やっぱ気づいてたか
 安堵とも、諦めともとれる表情をしながらは答えた。
「あぁ……そうだな。俺とあんたは一蓮托生……か」
「だが俺はお前を拘束したりはしない」
 煙草に火を点しながら男は言った。
「ほぉ。じゃ、どうするって?」
 意外とも、当然とも取れる声音では答える。
 実際のところ、この男が本当に自分を『使いこなせる』のか? の方に興味があったからだ。
 使いこなせなければ、こちらも従わないだけだ。
 空白の傷を受ける者を使っての訓練、という名の実験も受けているのだから。
「ん? あぁ……そうだなぁ。ま、俺が上に上がったらお前をこき使うってことでどうだ?」
 そう言って煙草をふかす。
「オイオイオイ。それじゃ俺はあんたの銃になれと?」
 恐らくこの後の戦闘にでも使うつもりなんだろうか。
 だが男は首を横に振って答えた。
 が、それは答えになっていなかった。
「ま、その時が来ればのお楽しみって奴だ。それにしても『Winged』翼ある者……翼あり空を飛ぶ者。なるほど。空を統べる、天帝か。いい名前だ」



 二年後……
 いきなり昔話をしだした張が、
「アレは、死闘っていうより死踊……だったな」
 と、そう言って結んだ。
 あの直後くらいに警察組織を抜け、もう一方の組織へと鞍替えした張は、今や立派な幹部になっていた。
 そしてがそれに答える。
「いや、あれは悪いゲームさ。そして勝ったのはお宅。俺は貧乏くじを引いただけ」
 どうやら三合会という組織は、警官だった張維新のことを二度試したようだった。
 その最初の事件が、自分が関わった抗争、ということになる、らしい。
「まいいさ。さてと、久しぶりにタダ働きをしてもらうぞ。?」
「分かってるよ。張の旦那」
 それぞれ銃とナイフを構え、彼等はドアの向こうへと飛び出していった。
アトガキ
香港時代……難しい……これでも愛されてます! と言ってみる。
2012/03/08 加筆書式修正
2006/xx/xx
管理人 芥屋 芥