その日何が起きたのか。
 誰にも分からなかった。
 しかし突然、月が消えたあの日。
 全ての衛星が異常をきたしたあの日。
 あの日から、生まれ続け踊り狂うは地獄の使者か。
MidnightTown
『ポルトガルのエージェントがやられた』
 突然掛ってきた電話で、電話の向こうの男が叫ぶように言った。
 そう聞いた、電話に出た男は焦った。
 ヤバイ。
 これは、別の組織が動いている。
 そう直感した男は、『物』を女に預けた。
 『物』の重要さは、女も重々に承知している。
 ゲート内物質のことだ。

「俺以外の人間に渡しちゃだめだよ」
 言い含めるように言うと女は
「うん。分かってる」
 と強い決意の瞳で頷き返す。
 そして彼は、その男の気配をドアの向こうから感じ取った。
「だ……誰だ!」
 鋭い声がその方向へ飛ぶ。
 だが仕掛けるられる様子もなく、その気配は忽然と消えた。
 ヤバイ。
 感づかれている。
「必ず戻ってくる。千晶、それまで」
「分かってる。気をつけてね」
「あぁ」
 固い約束を交わし、男女が分かれた。

 男は女を守るために、できるだけ遠くへ。
 女は男のため、預かった物を隠した。

、余計なことをするな」
 そこから随分離れた路地裏のビルの、更に横の壁にある資材置き場のトタン屋根の上で体を休めている一匹の黒猫からその声が上がった。
 当然その猫は『ただの猫』ではなく、契約者が乗り移った特殊な猫だ。
 こういう事象は、もはや珍しいものではなくなっている。
 その場合、契約者が動物に乗り移ったまま本体が死んだケースが多いのだが、その猫もまた例にもれず、自分の体を失っていた。
 だがそれを悲観したりはしない。
 それこそが、契約者と人間との違いでもあった。
 そしてこの猫に乗り移った契約者もまた、それを悲観してはいなかった。
 むしろ、猫の姿であるということを利用して組織の任務に就いている。
「お陰でターゲットが逃げたじゃないか」
 と咎めているのかぼやいているのか分からない、だが『しょうがないなぁ』といったどこか甘さが残る口調で猫が言う。
 そして、そのビルの方の壁にもたれているシャツとスラックス姿のどこか楽しげな表情の男と、その横に佇む無地の黒い長袖シャツとジーンズ姿の12か13歳くらいのどこか虚ろな、感情を無くしたような表情をした少年の二人が、喋る黒猫と相対していた。
 そして、猫の質問には男が答えた。
「仕方ないさマオ。警察を事前に動かして、あの男を陽動するのが俺の本来の仕事だったからね」
 と男が言うと
「全く。組織も信用がないな」
 と呆れた様子で黒猫が答えた。
「保険は出来るだけ多い方がいい。さて、ヘイも動いてる。あの男がどこをどう逃げるかは分からないが」
 ここで言葉を切り、ジーンズ姿の少年に顔を向けて
「とりあえず、眠。奴は今どこにいる?」
 と、前半の言葉と『眠』という少年に向けた言葉の響きが、常とは違いどこか柔らかい声音のようにマオには聞こえた。
 そこが、このが通常の契約者とは違う一面。
 ヘイもそうだが、この男もギリギリのところで『人』としての感情を失っていないのではないか?
 そう思わずにはいられない、そんな声だった。
 だが、その考えをマオは即座に否定した。
 ヘイも、この目の前にいる男もレッキとした契約者だ。
 実力は組織の間でもトップクラス。
 しかしはわざと任務を失敗し、ヘイにその手柄を譲っている節さえある。
 何のために?
 疑問は付きまとう。
 何故? と。
 だが、結果的に任務は成功しているのだから実力は本物だろう。
 と、マオはそれで納得しているが。
「黒いビルの、上にいる。移動してる。走って、飛んだ」
 抑揚のない声が、その場に木霊するようにゆっくりと静かに響く。
 少年は目を閉じ、しかし何かを見ているのだろうか。
 眼球がせわしなく動いているのが端から見ても分かった。
「飛んだ?」
 聞き返すに、眠は目閉じたまま僅かに頷き更に言う。
「警察が、彼を追ってる。もちろんヘイも追ってるけど、現在観測されているのはあの男だから……」
 だから、警察はあの男から情報を頂こうとしているのだろう。
 その直後だった。
 無線で連絡が入ったのだろうマオが
「じゃ、俺はそろそろ行くわ」
 とトタンの屋根から足音もなく下り、夜の街へと消えていった。




 マオの姿が見えなくなってから
「さてと」
 とポツリと呟くように言って、どんよりと曇った、しかし星だけは出ている異様な空を見上げてが、その異様な星を見て目を細めた。
 ビルとビルの間に挟まれて、そこから見える空と星は僅かだったが、それでも一歩ここから外に出ればそれは全天に広がっているのだろう、偽りの空があるはずだ。
 そして、今見えている分も含めて、この星一つ一つが契約の星……というわけだよな。
 と、頭の片隅で確認するように言葉を並べる。
 では、発動しても滅多に輝くことのない自分の星は一体なんなのだろう。
 と、自嘲するようにそうも思った。
 しかし直ぐに
――ま、考えるだけ無駄か。
 と、考え直す。
 大体、契約者はそんなことは考えない。
 ただ、非情になりさえすればそれでいい。
 ただ、罪悪感もなしに殺しができればそれでいい。
 契約者は夢を見ない。
 語らない。
 人を愛さない。愛せない。
 ただ、全てに措いて、合理的になりさえすれば、それでいい。

「止まった」
 眠の言葉で、、いやは自らの思考に終止符を打った。
 とはいえ心のどこかで燻ってはいるのだが、それでも無理矢理その火を消し、そして
「そろそろ、かな。インの観測霊は来てるか?」
 と、冷徹なまでの声音で眠に問うと、「居る」と目を閉じたままで眠が答える。
「じゃ、後からついて来い」
「分かった」
 と確認を取った直後に、がそこから一瞬で消えた。




 男は走っていた。
 とは言え、そこは通常の歩道ではない。
 車が走っているような道路でもない。
 そこは、ビルの屋上。
 自分と同じユーロから来た、ポルトガルのエージェントが殺された。
 そいつに手が回ったと言う事は、自分にも『手』が回ってくることは目に見えて明らかだった。
 それに、あの気配。
 あれは明らかに契約者の気配だった。
 物を、女に託しておいて正解だった。
 この件が下火になれば取りに行こう。
 そう思って、男は走っていた。
 人が通ることはない、夜の街を。
 男はただ、逃げていた。
 人が通り得ない、ビルの上を。
 男は逃げていた。
 未だ姿を見せない、しかし確実に『そこ』まで来ている

 契約者から。
アトガキ
DARKER THAN BLACK-黒の契約者-
マオとの会話
2012/03/23 加筆書式修正
2007/06/21
管理人 芥屋 芥