「
……」
少年が彼の名前を呼んだ。
いや、正確にはその少年は『ただ』の子供ではない。
感情の一切が消え去り、自律的に活動しない通称ドールと呼ばれる存在。
そんな少年の姿をした『ドール』が、公園の入り口に面した街路樹の向こうから彼を呼んだ。
「あぁ。分かってるよ、眠。あ、そうだ。警察は今どの辺りまで来てる?」
と、一瞬前までヒトゴロシを犯していたとは思えないほどの優しい声で、
はその現れた子供に対応する。
そして、問われた『眠』と呼ばれる子供はゆっくりと目を瞑り、抑揚のない声で静かに
「四谷の角、曲がってきてる。SATも一緒。でも、余り近くじゃない」
と言った。
「そうか。じゃ、まだ少しは時間はあるかな。行こうか、眠」
は慌てる様子もなく、『眠』と呼ばれた少年の頭にポンと手を置くと、公園の入り口の前から通りへと歩き出そうとして、その足を止めた。
「ヘイ……?」
そこに立っていたのは、ジーンズとシャツというラフな格好の見慣れた彼、リ・シェンシュン……いや、ヘイだった。
「今はどっち? シェンシュン? それともヘイ?」
確認するように
が肩を竦めて問いかける。
その言葉に、軽く息を吐いた彼の体から腹時計が鳴った。
その音に、
の顔が珍しく笑いの形を取った。
シェンシュンだ。
それを確認した
の表情に、さきほどまで戦闘していた顔とは全く違う、年相応の顔が浮かぶ。
「舜生。俺はお前が大食らいだってのは知ってるよ? だけどお前、緊張感無さ過ぎ……」
さっきの凄惨な殺人を目の当たりにしても動揺せず、ただひたすら冷静に傍観に徹していた青年の余りの空気の読めない腹時計に思わず
が噴出した。
そんな笑いを堪えるのに必死で背中を曲げる彼に、ただただ恥ずかしそうにヘイ、いや今は舜生の彼が申し訳なさそうに「あ、あの。
さん。その……ごめ……」と俯いて謝る。
そんな彼に向かって「いいよ。何かおごる」と、彼が言い終わる前に言うと
は付いて来いとばかりにそこから歩き出す。
「いいんですか?」
と顔を上げて聞いた彼に
は
「あぁ」
と答えた。
その食べっぷりに、
は毎回毎回舌を巻くばかりだ。
それにしても
「お前、食う量増えてないか?」
この前会ったときは、今目の前に展開されている料理の量ほどじゃなかったハズだと記憶している
が呆れながら問う。
が、舜生はそれを気にした様子もなく答える。
「そ、そうですか?」
――それにしても、お金。大丈夫かなぁ……
オゴルと言った手前、彼に払わさせるわけにはいかないが、それにしてもこの食いっぷりを見せ付けられては、いくら安いレストランとはいえ
は柄にもなく財布の中身を心配してしまう。
時間が時間なので、安いチェーンレストランにはジーンズとシャツのラフな格好の青年舜生と、スーツのジャケットを脱いで、スラックスとシャツ姿でそれを着崩した格好の青年、
の二人だけだった。
しかしながら、テーブルに乗っている料理の量は、とてもではないが二人で食べきれるような量ではなかったけれど。
「で、舜生。お前仕事は?」
仕事をするためにこの日本に来た、ということになっている彼は、昼間は世間の目を誤魔化すために働かなければならない。
ただ黙々と大量に食べる人間と、それを呆然と見守るがごとく呆れた様子の二人組みでは目立ちすぎるという判断もあって、
は懐かしい友人に出会ったかのような雰囲気で人間らしくその話を切り出してみた。
「明後日からです」
「明後日か。住むところはもう決まってるんだろ?」
「はい。なので、明日不動産屋さんに行ってから家に行くつもりです」
確か、これから働くことになる会社が彼が住むアパートを用意するはずだが、
は飲んでいた珈琲カップをテーブルに置いて、浮かんだ疑問を尋ねた。
というよりも、先ほどから会話がどこかかみ合っていない気さえして、
は確かめるように舜生に聞いた。
「じゃぁ今日は?」
「今日?」
キョトンとした表情で、今日何皿目かのハンバーグを切っている手を止めて舜生が聞き返す。
「うん。今日の宿だよ、今日の宿。お前明日大家んとこに行くんだろう?」
「はい。明日ですね」
「だったら、今日はどうすんのかって聞いてるんだけど」
まさかとは思うが、と
は内心確信しながら問いかけた。
あの公園に舜生が現われた理由。
契約者が起こす事件に関して、その『発生した事件に全く関係のない契約者』がその仕事の後に現われるといった不合理かつ危険な橋を渡るようなことは絶対にない。
何故なら星の瞬きは天文台が観測を握っており、力を使ったときの瞬きは直ぐに察知され警察に連絡がいくというシステムが確立されているからだ。
それに、そういう時の契約者の出現は大抵相場が決まっている。
その倒した契約者の仲間か、あるいは別件で『生き残った方を狙っている契約者』かのどちらかでしかない。
だが舜生は契約者・ヘイとしてではなく、ただの顔見知りの李舜生として仲邑
の前に現われた。
ということは、全く別の意図が見えなくもない。
「まさか、お前……」
「はい。この後の用事を終えたら、
さんのところに寄せてもらおうと思いまして」
と、人好きのする笑顔でニッコリと笑いながら舜生が答えた。
その答えに、ガクリと肩を落として呟くように
が「お前、狙ってただろう」と言うと、舜生の顔に驚きが浮かんで「いえ、とんでもない」と言って否定した。
「たまたまあの道を通っていたら、
さんが女の人と一緒に道を逸れるから、それで、その、気になっちゃって……」
絶対に嘘だと
は思ったが、うな垂れ次第に小声になっていく舜生を見て彼は大きく肩を落すと同時に息を深く吐いた。
「お前なぁ。そういうの、何て言うか知ってるか?」
「さぁ……」
「そういうの、打算的っていうんだぞ?」
そう言って左手で頬杖をついて、右手で前髪をクシャリと掻きげる指の仕草に舜生は珍しくゾクリとする。
本人は気付いてないかもしれないが、そういう何気ない仕草に色香が漂うのだ。
この、仲邑
という男は。
それにしても、契約者が『打算的』などと口にするとは、この人もどこか人らしさを残しているのだなと、契約者の頭で舜生は思った。
「ダメ、ですか?」
切ったハンバーグを口に運びつつ、舜生は
が断らないことを承知で聞いてみる。
いや、『断れない』と言った方が正しいかもしれない。
実際この青年、仲邑
は舜生の頼みを断った試しがない。
と言っても舜生としても無茶な頼みをしたことがないのだが、それでも断られた記憶がないから、きっとそうなんだろう。
「わかったよ。ドアは開けてる。『何時でも』どうぞ」
返してきたのは、諦め半分投げやり半分の声での返事。だが舜生には、
がその力を発動させたのが分かった。
それにしてもと思い立った舜生が、スープを飲むのを止めて静かに問いかける。
「
さん」
「ん?」
「対価は?」
と。
舜生として、契約者の話をすることは滅多にないがそれでも彼は聞いておきたかった。
契約者として能力を使った後は、必ずその対価を支払わなければならない。
それは全ての契約者にとって共通のこと。
星が定めた、能力を使うことへの代償でもある。
だが「もう済ませた」と、
は簡単に答えるだけだった。
思わず「へ?」と、間抜けだと思える声が舜生の口から出た。
だが
は
「もう終わってる」
と静かに答えて、二杯目の珈琲を注ぎに席を立った。
やがて注文した大量のご飯を全て平らげた一人は満腹になって、一人は財布の中身を空にしながら店を出る。
「じゃぁ、また後で」
と、舜生がその場から立ち去ろうとした時だった。
空にまた星が瞬き、そしてその中のいくつかが流れていった。
それを見上げて、
は今日は契約者がよく消える日だと思ったが、それは口には出さず
「舜生。仕事、見させてもらうよ」
とだけ言うと、夜の街へと消えていった。