『Dolphin Street』
そこは、日々JAZZを愛する人たちが集う場所であり、また日ごろの疲れを話すことによって、好い音楽を聴きながら癒す、そんな空間。

横置き用スタンドに立て掛けられたギターの上に子猫が寝ているのを見て、その人はそれを取ろうと伸ばした手をスッと引っ込めた。
そして、その子猫を見るその視線は一瞬驚き、やがてとても優しいものへと変化していった。

それを見ていた僕は、
あぁ。こんな顔もするんだと、思った。
Dolphin Street
   kaito about cat?

横に立て掛けられた、木でできたアコーステッィクギターの不安定な側面の上で絶妙なバランス感覚を保ちながら安心しきったように眠る子猫に向けられた彼の優しい眼差し。
だけども、それが自分に向けられることはない。
自分に向けられるのは、いつもの、彼の視線。
どこか一線を引いたような、ほんの少しだけ寂しい感じを受ける視線。
モノを、見る目ときと同じ視線。
 
しかしこの、横に置かれた彼のギターで眠る猫という名の動物の子供は、命あるもの。
僕には、無いモノ。
宿らないモノ。
 
――  ――
 
決められた法則(プログラム)なんて無い、自由を得るもの。
僕には、無いモノ。
―― ……?
遠くの方から誰かがそう聞いてくる。
誰?
分からない。
耳はいいはずなのに、聞き取れない。
「あの」
「シッ」
掛けた声は、一瞬の間をおかず遮られる。
猫の子供を、起こさないためだ。


――預かってって頼まれたんだ。


珍しく早く帰ってきたその人が、玄関先でそう言ったその手の中にあったのは、正に動く毛糸玉のような生き物だった。
いや、実際には毛糸玉そのもののような、小さな小さな動物だった。
丸めた手にスッポリ収まっているその動物と彼の顔を交互に見つつも、戸惑いながら尋ねた質問にはすぐに答えが返ってきた。
「あの、コレ……」
「あぁ。子猫。今日店に行ったら、マスターから預かってって頼まれちゃってさ」
と、少し戸惑った声の色とは裏腹な、どこか楽しそうな表情をしながら事の経緯を教えてくれたけれど、でも、それにしては少々無理がある上になんだか脈絡がないような気がするのは、きっと気のせいじゃない。
だって、今日は平日だから店には顔を出さないはずだし。
とは言え、平日だからって店に行かないということは無いだろうけれど。
でも、僕にはそんな疑問を聞くことはできないから。
だから黙るしかない。
「カイト、ミルク出して」
そう言われ、冷蔵庫に手をかけてそこからミルクを取り出したんだっけ。
 
 
ギシリ微かな音を立てて座っていたソファーから、キッチンの方に置いてあるテーブルの方の椅子へと向かおうとしたんだ。
何故ならギターの側面で眠る子猫が……マスター以外の『命』の存在が、とても……怖くて。
だけど。
……ッ!?
「だめだよ」
驚いて、思わず声を上げそうになった自分を急制動系のプログラムが瞬時に走って何とか耐える。
何故ならまだ、黙っていてという言葉が解除されてないから。
それにしてもどうして?
どうして僕が子猫から遠くに行こうとしたのが分かったの?
そんな疑問が浮かんでいたのだろうか。
マスターは腰を浮かしかけた僕をチラリと横目で捉えながら、
「店にいるルカもそうだったんだけどさ。子猫が怖い?」
ゆっくりとした口調で言いつつも、しかし逃げることを許してくれない声だった。
しかしそれは多分、僕が勝手に法則に縛られてるだけだから。
でも、ギターの上でぐっすり眠る猫の子供は……
「は、はい」
「なら、尚更逃げるのはダメだね」
これもマスターの方針。
妙なところで、スパルタな人。


「み?」
起きた子猫は、不安定なギターの上で大あくびすると足音も立てずに飛び降りて、そのままマスターの足元へと身体を擦り付けて甘えてくる。
僕はそんな子猫から逃げ出したくて、でも身体は動かなくて困ってしまっていた。
そんな僕なんてお構いなしに、マスターは猫を膝に乗せて戯れてる。
やがて
「ちょっとお願い」
と言ってソファから立ち上がった彼は、さっきまで子猫がぐっすりと眠っていたギターに手を伸ばして持つとそのまま二階へと上がろうとしていく。
ちょっと待ってください。
マスターの座っていた場所から猫がこっちを見上げてて、怖い。
「あ、あの!」
「?」
怖さのあまり呼び止めたはいいけれど、そこから先の声が出ない。だって、猫が……
「あぁ、ターゲットがカイトに移ったんだから付き合ってあげて。大丈夫。これを縦とか横に揺らすだけで遊んでくるから」
そう言ってポケットの中から取り出したのは、見たことも無いような道具で。
投げられたそれを掴んで猫に差し出すと、先の柔らかい方に子猫が……
「棒の方をカイトが持って、上とか下とかに動かしてみて。そしたら飛びついてくるから」
それだけ言うと、今度は本当に二階へと消えていった。
一人になったリビングのソファの上で、子猫がジッと僕を見る。
その視線に怯えながらも、なんとかマスターから渡された物を動かしてみた。
ガシッ!
ッ!?
一瞬、何が起きたのか分からなかった。僕が見たものは、子猫が、このふわふわの付いた棒を目掛けて……?
――お、面白いかも。
そう思い、さっきマスターに言われた通りに上下左右に動かしてみるた。なるべく、毛糸のふわふわとしたものが動くように。
そうすると、子猫は面白いように反応した。
まるでじゃれ付くみたいに、手を足を伸ばして必死にふわふわを追いかけることが僕にはとても新鮮で。
楽しい。
そう思った時、「お、懐いた」と後ろから言ってきたのはマスター。
「マスター?」
驚いて思わず棒を振る手が一瞬止まり、しかし上から重なってきた彼の左手に体が震えるのが分かった。そしてきっと彼もそれに伝わっているだろうことも。
だけどそんなことお構いなしにマスターは、僕の手を掴んだまま動かして棒を振って子猫と遊びだした。
子猫が飽きるまで、ずっと。


猫はね、家の中で一番居心地のいい場所を知ってるんだよ。


その言葉通り、どうやらこの猫という生き物は自分の居心地の良い場所というものを知っているらしい。何故なら僕と同じところを選んだから。
すなわち、マスターの部屋にあるベッド。
それってつまり、僕は猫と同じということですか?
それを聞こうとして諦めたけど、どうやら伝わっていたらしく、
「カイトも猫みたいだよね」
と言って、さっきギターの上で眠っていた子猫に向けた優しい視線で僕を見た。
いつもは暗くしている部屋だけれども、今は机の電気が点いていてほんの少し明るくなってて周りが見えるから、その視線の柔らかさはすぐに分かった。
欲しかった、あの優しい目が僕を見てる。
――ヤバ。泣きそう。
「泣いていいよ。誰も見てないから。でも、何でカイトが泣くの?」
腕を持ち上げて、そのまま頭に手を置いてきた。
「だって……マスターは僕を見るとき、なんか……その、上手く言えないんですけど」
体を走る電気が作り出す法則の所為で、発生する言葉の何分の一だろうか。きっと数十万分の一も言葉に出せない自分がもどかしいし、それに制約が加わって当り障りのないことしか問い掛けられない。
「まるで物を見てるときみたいだ。違う?」
真ん中を掴まれて、動揺という滅多に走らないプログラムが身体を巡る。
セミダブルのベッドで二人と今日は一匹で眠る中にあって、僕だけが『生きてない』
それに、メモリの底の微かな記憶が……
「大丈夫。大丈夫だよ」
何が大丈夫なのかは分からない。けど、マスターが大丈夫だというなら、きっと大丈夫なんだろう。
それに、微かに聞こえる彼の生きる音が心地よくてそのまま僕は、眠りの闇へと足を踏み入れた。



「大丈夫だよKAITO。少なくとも俺は……」
アトガキ
店でルカはどんな反応したんだろう。
2023/08/07 script変更
2009/10/19
管理人 芥屋 芥