彼が泊まった次の日のマスターの様子はかなり暗い雰囲気で、とても声をかけられるような様子じゃなかった。
あの忍足という名前の人が朝に家を出た後しばらくしても、マスターはパソコンに戻った兄弟達を起動することもしないでただソファで横になり、顔に腕を置いてボーっとしているだけのようにも見えました。
ねぇマスター
どうしたのですか?
昨日の、僕が彼に首を絞められたことは、そんなにマスターにとって何か悲しみを受けるようなことだったのですか?
それとも、何か、別の意味でもあるのですか?
それは一体何ですか?教えてくれないと僕は、わかりません。
『理解』できません。
でも……
でもマスター。
僕はとても、嬉しかったです。
とても。とても。
人ではないモノ
「マスター……
 昨日の深夜の、あの話のことですが、僕はとても嬉しかったです」
と、ソファに未だ横になっていて起き上がろうとしないマスターに、遠慮がちに話を切り出してみました。
だって、本当に嬉しかったから。
あんな事を言われたのは『初めて』だったから。
メモリの底に眠る、この人に拾われる前のマスターは……よく、言う人だったから。
『嫌な音』を、『嫌な言葉』を、よく言う人だったから。
だから……嬉しかった。
そう思いつつ、昨日メモリの中に入ってきた音・光景のファイルをカイトは開く。
 
 
あの後、ポツリポツリとマスターが本当のことを話してくれた。
移動して、ソファのところに座って二人。向かい合って話している。
僕はいうと、人一人分身体を離したマスターの座る三人掛けソファーの端で、そんな二人の話を黙って聞いていた。
『俺が、もしその条件下でカイトに手を伸ばすって言った理由か?』
と、確認するようにマスターが切り出すと、忍足さんは固い声で
「せや」
と言った。
その条件下というのは、つまり救助の人が沢山いてマスターがこの忍足さんを助けなくてもいいと判断したときは、僕に手を伸ばしてくれるって。
するとマスターから小さく息を吐く音が聞こえたかと思うと、それは直ぐに言葉に変わった。
「その場合人・・・・・・つまり、救助隊から見たらお前が一番最初に助けるべき存在で彼等の視線は真っ先にお前にいくだろうね。
 何故なら救助隊は人であるお前を助けに来てるのであって、カイトを助けには来ていないから。
 だから俺は、俺だけでもカイトの方に手を伸ばすってことだよ」
忍足のことを『人である』と言った限りは、カイトのことも『機械である』と言わなければならないところを、はワザと飛ばして言う。
それに気付いた侑士だったが、ここで突っ込みを入れるのもどうかと思い、変わりに希望を口にしてみる。
「それでも、俺はに手、伸ばして欲しいんやで?」
と。
忍足さんがそう言った時の表情は、少しだけ拗ねているような顔だった。
恐らく、この話には不満があるのだろう。
とか予測しつつ考えながら、カイトは黙ってそんな忍足の様子をジッと見ている。
促されたとはいえ、謝った彼に対してカイトはある一定の基準まで忍足への何かを回復している。
とはいえ、何かの恐怖が消えた訳ではなかったのだが。
その時はマスターに頼るしかない。
それでもダメなら、静岡の工場に帰るしかない。
そんな、不安定な存在なのだ。
自分たちは。
などとカイトが考えていると、話は進んでいて
「お前には、沢山の人が手を伸ばしてくれるよ。
 それに侑。
 もし今からこの家を叩き出されることになったとしても、泊まるアテくらいあるんだろう?
 そういうことさ。
 でも彼等には泊まるあてどころか、行くあてもない。
 次のマスターが拾うか何かしないと、そのままになる。
 だから俺はマスターとして、彼等に真っ先に手を伸ばすってこと。
 それだけだよ。」
上手い具合に、が言葉を濁して話す。
その言葉を、彼の口から聞きたくない。
嫌な音。嫌な言葉。
破棄、アンインストール、処分……
そんな言葉を想像するだけで、泣きそうになるくらい悲しくなる。
この人からそんな言葉がもし出たら、僕だけじゃなくて、メイコもミクももレンも皆悲しむ。
だって『マスター』は、僕たちが依存できる唯一の『人』だから。
「俺くらいしか手を伸ばす人間がいないなら、俺はお前を他の人に任して、カイトを選ぶってことだよ」
「俺はそれでもに手を……」
尚言い募る彼の言葉を遮って、マスターが言う。
「侑士。
 わがまま言うな。
 もしお前がその手を振り払えば、それは沢山の人の善意を無駄にする。
 俺が言ってること、分かるか?」
静かに紡がれた言葉は少し強くて。
ほんの少しだけ、気圧される。
だけど、彼が答えた『答え』は言葉そのものとしては、『理解できない』という意味をもつもの。
しかしここでは、理解を拒否したいとも、理解したくないという拒絶とも取れる意味を含んでいるものだった。
「……ワカラン」
その言葉に、僅かに大きく息を吐くマスター。
やがて言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「侑。
 こんな夜中に説教させるな」
と。
「だって、それ認めたらは俺にっ」
「お前には、沢山の人が周りで生きてるってことさ。
 両親や友達とかクラスメイトとか学校の先生とかさ。周りにたくさんいるだろ?
 でも彼等には俺しかいない。
 彼等が依存できるのは、たった一人の彼等のマスターだけなんだよ。侑士」
そこで一度言葉を切ると、今度は全く雰囲気を変えて
「でもまぁ。
 そんな状況なんて滅多にこないと思うけどね。
 ほら、コトワザであるだろ?
 二つの兎は追えないって。
 まぁそんなんだから、彼等を壊すのは、ちょっと勘弁したってくれへんか?」
と、言葉の最後で関西弁になり、表情も少しオドケタ様子で言うと、ここで忍足さんが朝早いからと早々に話を切り上げたけれど。
そして忍足さんは、まだ言い足りないような表情をしていたけれど、マスターが言った
「お前さ、明日は大事な試合なんだろ?
 そろそろ寝ないと、睡眠不足で負けるかもよ?」
の言葉に、嫌そうに顔を歪めた忍足さんが答える。
「……うわ。そうくうるか。
 ま、今日のところは納得したろ。ほな、もう寝るわ」
最後の悪態だろうか。
そう答えつつソファから立ち上がり侑士がの部屋へと足を向ける。
彼がこのリビングを出るとき、
「侑、おやすみ」
が声をかけると彼は足を止め振り返って
「おやすみ、
と答えて、再び身体を部屋の方へ向けたときチラリと僕を見た……ような気がしましたけど、センサーは無反応。
きっと、人の言う『気のせい』だとカイトは判断し、今度は自分がそんな忍足の部屋へ戻る後姿の様子を視線で追っていると、ドアが開けられ、そして閉じた。
バタン。
リビングにカイトとが残されて、フイにがカイトを呼んだ。
「カイト」
「……は、はい」
思いっきり首をグと回して、の方をカイトが向く。
「大丈夫か?首」
そう聞いてきたの表情は、一瞬前の侑士に向けていた表情とは全然違って心配の色が濃く出ている。
「あ……は、はい」
そう答えつつカイトはゆっくりと、さっき彼に掴まれた首元に手を持っていき触れて、その様子を見て
「大丈夫だね」
と、再度が聞いてくるその言葉に、頷きで返事をする。
この時、先ほどが触れようとして、苦痛がフラッシュバックしてしまい思いっきり避けてしまったことをカイトは後悔していた。
自分で確かめさせたのがその証拠。
しかしそれには触れず、は話を続ける。
「そうか。しばらくは様子を見るけど、ダメなら言ってね」
その返事を見て安心したような顔に変わった彼が、その言葉を言い終わるとソファから立ち上がり、併設されている台所に足を向けてそのまま冷蔵庫の中から水と棚の中からコップを取り出して飲んだ。
よほど喉が渇いていたのだろうか、二杯飲んでグラスを流しに置いて
「じゃ、俺も寝るから……おやすみカイト」
と、まるではやし立てるように言う。
そしてこの時から、の様子がおかしいということを知る者は、誰もいなかった。
 
 
 
朝起きてご飯を食べて、忍足さんここに来るときに持ってきたバッグを持って家を出てからずっとこの調子。
ソファで身体を横にした状態のまま、じっとして動かない。
起きてるかどうかも分からない。
しかしながら、起きてるのだろうことだけはなんとなく分かる。
だけどその様子がとても暗い。
声を掛けるのを躊躇ってしまう程に暗い雰囲気がから醸し出されていて、いつもこの人の傍にいたいと思っているカイトですらこの時ばかりはパソコンにいる兄弟達が羨ましいと思ったほどに、暗い。
そしてふとカイトが視線を窓にやると、そこの広がっていた空は今にも雨が降ろうかという程の薄暗い曇り空。
今日は曇りか。
雲が厚くて、そのせいで暗くて。
なんだか外も中も、暗いのばっかりだ。
そう考えながらカイトはの方に視線を戻す。
痛いほどに張り詰めた、機械には無縁だと思っていた『空気』
自分じゃ絶対に出せない張り詰めた何かがから出ていて、息が詰りそう。
この暗い空気をどうにかしたくて、思い切って声をかけてみた。
「マスター。
 僕は嬉しかったです」
と。
カイトがが横に鳴っているソファの傍らに立ってそう言ったとき、彼がこういう状態になってから初めて顔の上に置いた腕を動かしてその下から

顔を覗かせたけれど、その表情はとても悲しそうだった。
そしてその表情を変えることなく、がカイトに質問の意図を問いかける。
「何が?」
その声はとても冷たくて、いつもの彼ではないような。
そんな印象をカイトは持った。
そして問い返された意味について、CPUが考え始める。
マスターは、僕が何を言いたいのか分かっているはずなのに、あえて問い返した?
それとも、本当に分かってないのですか?
マスター?
マスターは、どこか悪いのですか?
それは、どこですか?
マスター、マスターは、一体どうしたのですか?
僕は何か悪いこと……で……も?
ここで初めてカイトに少しだけ不安が宿った。
それを察知したのか、の表情が少しだけ柔らかくなり、不安を浮かべたまま固まっているカイトに向けて口を開く。
「ごめん。
 ちょっと八つ当たりした」
その声はさっきの真意を問いただしてきた声とは全く違い、とても弱々しい印象を持たせるようなそんなの声を初めて聞いたカイトの頭は益々混乱していく。
「あ……」
そう言ったきり固まったカイトに、が苦笑いしながらさっきまでずっと顔に置かれていた腕をすぐそこに立っているカイトに伸ばして、言った。
「だから、ちょっと八つ当たりしたの。
 昨日の侑士の勘違いに、言葉は悪いけど、『付け込んだ』から……
 はっきり言って今かなり自己嫌悪中。
 ごめんねカイト。巻き込んで」
伸ばされた腕を思わず掴み、カイトが膝を折ってに言う。
「い、いえ。そんなこといいんです。
 僕は昨日の話で、マスターが僕を助けてくれるって言ったこと……とても嬉しくて……だから……その……マスター?」
カイトが一拍遅れて質問に答えるとの表情は更に悲しみを帯びたようになり、カイトの声は自然と止まる。
「……昨日は、侑士の勘違いに助けられたっていうか、なんていうかな。
 あいつがそう思うならこっちは黙っていればいいわけだし。
 でも見事に違う方向の結論を出してきたから驚いたよ」
と、まるで独り言のようにが天井を見上げたまま言う。
「マスター、それはどういうことですか?」
カイトが問う。
違う結論?勘違い?
どういうこと?
「だからね。
 昨日アイツが遮る前に言いたかった本当のことは……カイトで良かったってこと。
 つまり、一度でも人を襲ったりとかすると俺はお前らを……この先は、言わなくてもわかるよな?」
言葉の最後で、カイトの方を向いてが言うその表情に悲しみの感情がはっきりと分かるほど出ていた。
つまり、人を傷つけてしまえば、いくらマスターでも僕たちをここには置けない……
メイコならきっと手が伸びてきた段階で反撃しているだろうし他の皆もきっと、彼に手を出してしまうはずだから。
あぁ。
だから『勘違い』
つまりマスターは、僕でよかったと。
『人』に手を出さない僕だからこそ、良かった……と。
でも本当は、そんなこと言いたくないのだろう。
その証拠に握られる手に力がこもっていく。
痛いくらいに。
「ごめん」
唐突に謝罪の言葉を告げたマスターに、首を振ってカイトが否定を返す。
「ま、その……なんだ。
 もし、あの状況に置かれたのがお前以外なら、直ぐ止めようと思った。
 でもまさか俺も、忍足が本気だなんて思わなかったし……」
つまり、
「全部、見ていたのですか?」
その問いにがコクリと頷いた。
ならば、どうして?
見て見ぬ振りなんて……どうして?
「あいつがお前等と会って、果たしてどう思うのか、ちょっと知りたいと思ったのは確かだよ。
 彼とは、忍足とは彼が小さいころからの知り合いでね。
 なんていうかな。身内に対するようなものを俺にもってて。
 で、どう出るのかなぁって、少し気になってさ。
 まさかあんなことするとは思わなかったけど。
 しかも、話の内容に驚いてて入るタイミング逃したし」
そこで言葉を切ったが、真っ直ぐにカイトを見て
「人の気持ちって、バランス取ったり見極めたりするのって、難しいな。
 だから、ごめん。
 昨日はちょっと、試した」
「マスター……」
「うん。
 だからすぐに止められなくて、ごめんカイト。
 首は、大丈夫か?」
まだ気にしていたらしいの声もそして表情も、後悔と心配の色が濃く出ていた。
その問いかけに、笑ってカイトが返事をする。

「はい。大丈夫です。
 僕は、『人』じゃないですから」
と。
アトガキ
天回高楼シリーズの三作目……の予定だったのですが、どうも合わないっぽかったので、いるか通りに移動させました。
2023/08/07 script変更
2008/07/10
管理人 芥屋 芥