銃を下ろしたホークアイ中尉と、ロイの耳に届いた声があった。
『
・
はもらっていく。こいつは、存在することが許されない存在だ』
その、まるで全ての存在を憎むかのような暗く低い声は、銃を構えたまま動けないリザと
が消えた空間をジッと見つめたままのロイの間に響いた。
やがて、先に緊張を解いたのはロイの方だった。
未だ銃を構えて動けないリザ・ホークアイ中尉の持つ銃を降ろすよう、銃身に手をやって下に動かす。
手袋越しでも分かる、冷え切った銃身に伝わるほんの僅かな震え。
それを隠すように、リザはロイに言葉を告げた。
「あの者、追いますか?」
しかし本心ではそれを望んでいない。
追えば、血を見るのはこちらだ。
それが分かっているからか、ロイは首をリザの予想通り横に振る。
「いや、深追いは禁物だ」
「……分かりました」
その言葉に心底ホッとし、だが声にも顔にもそれを出さず、リザは答えた。
「あれは一体何だ」
部屋に入った途端ロイははき捨てるように言い、ドカっと少し乱暴気味に司令部の自分の椅子に座る。
「存在が許されない存在。そう言っていましたね」
机に半ば投げ出された紙をまとめながら、答えるのは同じく声を聞いたリザである。
銃でも死なない相手に出会った彼女は、初めは動揺していたものの、今は普段の冷静さを取り戻している。
「存在が許されない……怨恨か」
机に肘を付き、椅子をクルリと回転させて窓の外を見ながらロイがポツリと呟く。
きっとその頭では、これからのことが計算されているに違いない。
こういう時は話しかけない方が良いと、長年の経験からリザは知っている。
そしてその計算は、恐ろしく冷酷で冷徹なものである、ということも。
普段は無能だなんだと茶化してはいるが、その実、強かで計算高く、そして冷徹な男でもあるということを、リザは知っている。
「あの男、次に会ったら容赦はしない。探せるか?」
「全力で探します」
そう言うとリザは厳しい顔で部屋を出て行った。
中尉が出て行った部屋に一人、ロイは机に置かれた電話をジッと見つめ返す。
彼は、これから南方は勿論のこと、事と次第によっては中央にも話さなければならないのだ。
休んでる時間は、ロイにはなかった。
――できれば内密にしておきたい。しかし今、この司令部には中央から来ているヒューズが居る。さて、どうしたものか
と考えているとドアがノックされ、ロイが入室を許可する前にその人物はドアを開け、陽気な雰囲気を漂わせながら入ってきた。
「お。珍しいなロイ。お前が真面目に仕事して……る……」
入ってきたのは、先ほどロイの頭の中で顔を浮かべられていたメガネの中佐。
一個小隊がリザに呼ばれ、司令部を出たことの説明を求めに来たのだろう。
ドアを閉めると、雰囲気がガラリと真剣なものになる。
「で、何があったんだ?」
不穏な空気がこの司令部の中、あちこちに漂っているのを気づかない男ではない。
陽気な雰囲気は今はブラフであり、仮面のようなものだ。この男にとって。
中央と東方という違いこそあれ、親友であり野望も知っているヒューズに、ロイは先ほどの結論だけを告げる。
「……
が、目の前で連れ去られた」
そう言った瞬間、キラリと眼鏡が光ってその鋭い眼光が隠される。
「何があった」
「詳しいことは分からん。ただ、目の前で連れ去れたんだ」
「スカーか」
自分で言ったヒューズは、即刻、自分の中で否定した。
「違うな。ヤツならお前も襲われている。それに、あの男は連れ去るなどという面倒なことはしない」
「流石、俺たちよりもスカーを追っているだけのことはあるな。ヒューズ」
とロイが茶化せば、
「どうしてだ」
と、静かにしかし詰問するような声音でヒューズが問いかける。
その言葉の裏にあるのは、スカーの件でも十分面倒くさいことになっているというのに、更に問題が起こってしまったという困惑と落胆、それと驚き。
ロイの能力が発揮されない雨ならいざ知らず、今日の天気は曇り。おまけに
の錬金術は天候には左右されない。
玄関口でヒューズが見たあのホークアイ中尉の様子から、彼女もそこにいたはずだ。
それだけの戦力が居て何故!?
「錬金術を、封じられでもしたのか?」
ロイ・マスタング、別名『焔の錬金術師』の弱点が湿気であることを知る者は多い。
対策を立てられれば、形勢はやや不利になる。しかし、その場には
もホークアイ中尉も居たはずで、簡単に彼が連れ去れることはないはずだとヒューズは言外に告げる。
「……中尉が、後ろから撃ち込んださ」
銃にかけてはトップクラスの腕を持つリザ・ホークアイの銃撃はヒューズも知っている。
決して外さない彼女の銃弾を受けて、普通の相手ならまず、逃げられない。
「なら!」
「だが逃げられた。……あの光景は、異様だったな」
未だロイは自分が見たものが信じられない。
何発……いや、一度薬莢を交換してるから何十発か。その弾を食らいつづけても尚、その男は倒れなかった。
それを異様な光景と言わず、何だと言うのだろう。
そして最後の一発は……確かに、頭に命中した。
「異様ねぇ」
「聞かないのか」
「聞いてどうにか出来ると思うか? このか弱い俺が」
言外に『国家錬金術師は特別だ』ということを含ませたヒューズに、ロイは眉間に皺を寄らせて不機嫌さを隠さない。
「お前のどこが『か弱い』んだ?」
心底信じていない口調でロイが答える。
「か弱いんだぞ? 俺は」
と、顔をニヤニヤさせながら言ってのけるヒューズの顔が一転、真面目になって
「で、探すのか?」
と聞いた。
「当然だ」
今更、といわんばかりのロイの表情に、ヒューズはニヤリと笑って言う。
「俺も手伝ってやりたいが、色々と向こうに仕事を残してきてるんでね」
その言葉に、ロイの視線が険しくなる。
彼が報告するつもりなら、中央に失態を知られることになるからだ。
だからここは、友人としての彼に掛けるしかないとロイは諦めるしかない。
「分かってるさ」
「……見つかるか?」
「見つけるさ」
決意を伴ったロイの声に、ヒューズがニヤリと笑って
「一つ貸しだな。ロイ?」
と言った。
「南方に知らせなくていいんすか」
少佐の件は南方には知らせず、こちらで解決するとしたロイの命令に、ハボック少尉がタバコを銜えながらぼやく。
「構わん。こちらの失態をわざわざ宣伝する必要はない」
ボーっとしているようでその実優秀な彼は、いわゆる軍閥争いを憂いている。
失態を知られたくないというプライドが問題だということが分かるだけに、『上は複雑っすねぇ』という感想は心の中だけでぼやいた。
「それにしても、中尉の銃弾でも倒れなかったねぇ。そんな得体の知れない相手に、大丈夫ナンすかね」
ハボックがそこを突っ込むと、リザが一瞬言い難そうに顔を少し歪めるのをロイは見逃さない。
確かに不安だが、それでも失態を知られる前に片をつけなければならない。
見逃したヒューズに、借りを返すためにも。
「無駄口を叩くな。捜索は進んでいるのか?」
部下にはあの異様な光景、ホークアイ中尉の銃弾でも倒れなかったことは伝えたものの、そのあとに聞こえた彼の存在を否定するかのような発言があったことは伝えていない。
「とりあえず、
少佐の家付近や連れ去られた現場など一通り捜索してますが、糸はプッツリ途切れたままっすね。今のところこれといって進展はしてません。身代金目的、って訳でもないんでしょ?」
ハボックが、その眠たそうな目をロイに向けて報告すると同時に確認する。
その場に東方司令部のトップがいながら、出張中の南方司令部の少佐を連れ去ったのだ。
単なる金銭目的の誘拐ではないことくらい簡単に想像が付く。
それはすなわち、犯人は最初から
だけが目的だったとも言えるが、この街に縁のない
に恨みを持つような者がそう簡単に見つかるかどうか、という最大の問題がある。
兎に角、普通に捜索していては見つからないだろう状況が、ロイ達に打てる手立ては少ないことを意味していた。
それでも探さなければならないのは、東方司令部としての面子だ。
「この街の裏事情に関しては、お前の方が詳しいだろう? ハボック」
信頼している。そう暗に告げたロイに、軍人である以上それを拒否できないハボックは、困った顔で頭を掻きながら
「何とか探しますよ。それに少佐がいないと、大変なんでね」
何がとは言わなかったが明らかにロイを見やって、彼は部屋を出て行った。
それから三日。
連れ去った男からも、当然
からもなんの連絡もなく、また捜索も進んでいなかった。
――もしあの言葉通りならば、あいつはすでに……
そこまで考えてロイは頭を横に振った。
――あいつのことだ。生きているさ
と思うものの、最悪の事態の想定が頭から抜けないのは、一重にあの男から感じた狂気がそうさせていた。
しかしそれでもロイは否定する。
が大尉だった頃から知っているロイは、そう簡単に死ぬということが考えられなかった。
それに……
あいつの錬金術は、恐らく最も凶悪なもの。
そういう確信がロイの中にあるからだ。
昔から
は一見してふわふわとした影の薄い男だったし、ロイも当時はそう思っていた。
数多い部下の一人、大尉の一人という認識だけで、取り当てて何か目をかけていたわけではない。
最初は興味がなかった。
というのが、ロイの率直な感想だ。
興味を持ったのは、奴が錬金術師だと知ってから。
『国家錬金術師になるんだってな』
そう言って近づいたのが最初だったな、と出会った当時の頃が頭に浮かぶ。
あの頃より、引き続き自分の部下にしたいと思ったときもあったが、
は南方に飛ばされた。
それから随分経つ。
久々に再会した
は、相変わらずフワフワとしてつかみ所がなかったが……
ロイのそんな想いを途切れさせるかのように、唐突に室内電話が鳴り響く。
手を伸ばして出ると、電信の向こうに女性の声がした。
『大佐宛てに外電です。どうされますか?』
そう問われ、ロイは考える。
電信室を通した外電には盗聴が伴う。
そう判断したロイは、外電と直接通じる電信室へ足を向けて受話器を取り、名乗ろうとしたら、向こうが先に言葉を切り出した。
『あいつはこっちで預かってる』
やはり不気味に聞こえる低い声。
忘れもしない、ホークアイ中尉の銃撃でも死ななかった男だ。
「
は無事なんだろうな」
あれから三日だ。
無事である、という確証はない現状を打破するためにロイは問いかける。
『あぁ、無事さ。まだ殺さないよ。あいつにはなぁ、耐えがたい苦しみと絶望を与えに与えて殺してやるんだ』
「何故そこまであいつを恨む」
電話越しでも分かる、見え隠れする男の狂気に至極当然な疑問をロイは投げかける。
しかし返ってきたのは、男のロイを馬鹿にするかのような言葉だった。
『なんだよ。あんた
のこと何も知らねぇんだなぁ。まぁ、知る必要すらないかケケケケケ。俺はなぁ! あいつに恨みがあるんだよ! わかるか? なぁ、焔の大佐よぉ、あんた知ってるか? あいつが何したか……グハァッ!』
男が悲鳴を上げる直前、パンっと受話器の向こう側から明らかに違う音が響いたのを、ロイの耳は聞き逃さない。
「
か?! そこにいるのか?!
!」
思わず怒鳴る。
が、電話の向こうの男は自分に精一杯なのか、ロイの言葉を聞いていなかった。
『クソッ! 大人しくしやがれこの悪魔! お前なんか……お前の所為で!!』
ガシャンッ
唐突で乱暴に切られた電話に、ロイは思う。
切ったのはおそらく……
本人。