光、熱、力……そして命。
それらが自分の中にあるモノに引き込まれていく。
それと同時に失っていく自分の全てのエネルギー。
エンヴィーが感じた『暗黒の深淵』という表現はある意味正しい。
自分の中にあるものは、正しく暗黒の淵と呼べるモノ、そのものだ。
そして、ソレはあらゆるものを吸い尽くし、あらゆるものを放出する。
――ソレが回りつづけている限り、俺は……
遠くで、誰かが自分の名前を呼ぶ声がする。
最初は遠くにあったその声が、少しずつ近づいてきているのを
の意識はただぼんやりと感じていた。
やがてその声に誘われるようにしてゆっくりと目を開けると、霞掛った視界に誰かの顔の輪郭が見えた。
――だ、れだ?
の未だすっきりしない頭でそう思うのと同時に響いた
「
。いつまで寝ているつもりだ? 風邪を引くぞ」
という言葉、そして何よりも意外な人物の声で完全に目が覚めた。そして、しっかりと開けた目でその人物が誰なのか今一度確認して心底驚いた。
「……ッ!?」
固まっていたのはほんの一・二秒だったろうが、それでもその人物の機嫌を損ねるのには十分な時間だったようで、その人物、ロイ・マスタングは不機嫌な表情のままジッと
を見下ろしている。
そんな彼の様子に違和感を感じて
「……すみません大佐。ですが、いつからここに?」
と、彼の顔を下から見上げながら聞いた。
どうやら倒れると同時に意識を失った
は、彼によってベンチに寝かされたようだと判断した。
ここまでは良かった。
だが次の言葉で、最初に感じた違和感が大きくなる。
「30分ほど前だ。一度司令部に戻ったんだが気になってな。どうした?」
「30分、ですか?」
少し、いや、その言葉はこの大佐が話す内容としては余りにも不自然だと
は思った。
もし言うとおり30分前にこの人がここに来たとして、その間この人は一体何をしていたのか? なぜ直ぐに起こさなかったのかという疑問が残る。
それにこの大佐ならば、
がベンチで寝ているのを見た時点で起こしていたとしても不思議ではない、いや、そうすることがこの人物が取る本来の行動のように思える。
何故なら普段あれだけサボることを前提として動き、部下に仕事を押し付ける人物であるロイ・マスタングがこんな時に気を使う可能性は極めて低いからだ。
ましてや警戒態勢が取られているこの東部の街で、その軍令の長が一人で出歩きこんな人気ない場所にいるのは不自然極まりない。
更に……
「どうした。顔が怖いぞ」
上下向かい合わせで絡まる視線に対応しようとして
が起き上がろうとした。
だが……
――ッ!?
体は、ベンチから微動だにしなかった。そのことに半ば驚きつつも半ば冷静に周囲を見渡すと、空の色が変化していくのを
は見た。
すでに太陽が地平線へ届きかけていそうな微妙な明るさを保っていた曇り空は消え、まるで固まった血液のような赤とも黒とも言えないどす黒い色へと変わっていく。そして視界にあったマスタングの姿が、まるで煙のようにも水のようにも不気味に歪んでいくのを
は見た。
いや、煙のようにスーッと消えていくならまだ良かった。また水のように流れるように消えていくのならば。
だが実際はまるで泥水か何か、強いて良い表現を使うならば濃い絵の具同士がベットリとした質感のまま、周囲のこれまたドロリとした空気と混じり合い同化していくという、異様な光景がそこに広がっていく。
まるで怨念が込められすぎて薄まることを知らない思念体がそこにいるようで、これには流石の
も
――気持ち悪ッ!
と思わざるを得なかった。
だが、目を逸らすことは許されない。そんな異様で不快な光景を、ただ目を逸らすこともできずに
は見つめ続けた。
しかも異変はこれで終わりではなかった。
目の前の大佐モドキが消えたと同時に地面に現れた無数の人の影。
その影が、
を指して声にならない声で叫ぶ。
お前が殺したッ!
返せ。私の娘を返せ!
妻がお前の中に!
この悪魔! お前など『生まれなければ!』
無数の手が、ベンチと
の周りに伸びてくる。
だがその光景を、
は知っていた。
そして、知っているからこそ、先ほどの気持ち悪さとは別の思考回路に冷静さが戻る。
――あぁ。いつもの揺り返しか
それにしても、あの粘ついた大佐モドキの異様で気持ちの悪い光景は常にはなかったが、それでも今、目の前に広がっているこの光景には見覚えがあった。
あの異様な光景は、もしかしたら今の自分の記憶の戻りが速いことに起因しているのかもしれないと、
は冷静な心で思った。
そして今の光景は、いつもの光景。
扉の中から自分でストックした制御芯を受け取って使用すると、決まって『彼ら』が現れる。
あらゆる物を吸い尽くして放出したその瞬間だけは、彼らが残した最後の心が溢れてくる。
そして、その心一つ一つに
は丁寧に答えていく。
それは一瞬でありながらも、長い長い時間をかけて答えられていく。
やがてある声は消えていき、ある声は未だ叫び続ける等、反応はさまざまに分かれていく。
だが答え続けてきたことで、叫び続ける声は随分減ったように
には思えた。
彼らの声に耳を塞ぐことは簡単だった。
実際、最初の頃はそうしていた。
でも、いつの頃からか
は耳を傾けだした。それがいつ頃からだったのかは、もうハッキリと覚えていない。
記憶が重なりすぎて、奥の方はもう擦り切れすぎて掠れて見えない。だが許す許されないに関わらず、自分はここに居るべき存在ではないと、無意識に分かっているこの『申し訳ない』と思う心。
それに気づいたとき、
は彼らをどうにかして戻せないかとずっと考えている。
そんな彼らが存在していたのは、もう遠い遠い過去のこと。
『あの時』よりも昔の話。
どの国の記録にも残っていない、誰の記憶にも残っていない、それほど遠い昔の話だ。
いや、あの時、あの国にだけは少し記録が残っていたのかもしれない。
だがそれも、あの国が消えたときに全て消えた。
存在しない過去の残りモノとさえ言えない、そんな立派なものではない。自分は。
やがて彼ら心はまた、深淵の縁、暗黒の中へと消えていく。
この時までは、まだ
に冷静さがあった。
慣れた光景、慣れた想い、慣れた問答。
だが、視線を他へ向けた
がその先に見たものは、正に闇そのものだった。
そしてその闇の正体を、彼は知っていた。
それは、全てを増やしながらも全てを最初に戻す闇。
そして
が最初に戻ると、『全てのもの』が増えてしまう。
それを避けるために
は、出来るだけ早く『消える』ようにしている。
だが今のようにそう上手く行かないこともあって、成長しきってしまうこともザラにある。
こうなったらこうなったで厄介で、人生の途中で体が消えると『次』で追いかけてくる直近の記憶の中で、自分が死ぬ瞬間を強烈に追体験するハメになってしまう。
慣れたこととはいえ『次』訪れる『その瞬間』、自分が平静でいられる自信は半々といったところか。
そして闇は、今正に
を最初に戻そうとしていた。
今戻れば、折角『常とは違う』今のこの状況が一体何を意味するのか掴めなくなってしまう。
せめてそれを掴むまでは戻りたくなかった。
そんな
の動けない体に迫る、その闇に向けて心の中で彼は叫ぶ。
――ヤメロ。ヤメロ! まだだ。まだ俺は……ッ!!
「
!」
ガバッ!
の肩に手を掛けて揺さぶり起こしたはいいものの、視線が定まらない
の体をその男は少し乱暴に揺する。
「おい、しっかりしろ!
!」
焦点が定まらない彼の意識を向けるため、男はその頬を二度三度と軽く叩く。
すると浅い息を繰り返していた
の呼吸が落ち着いていき、男は彼の焦点が自分に合ってくるのを見た。
やがて男が誰なのか認識した
が浅い息を繰り返す中、男の役職名を告げた。
「……た、いさ?」
強張っていた体から無駄な力が少しずつだが抜けていき、自分の状況を理解しだした
に大佐と呼ばれた男は『何があったか』などを問うつもりだったが、この状態では無理だと冷静に判断して彼が落ち着くのを待った。
しばらく、二人の間に沈黙が降りる。やがて
「すみません」
と、一つ大きなため息を吐いて体の緊張をほぐしたベンチに座ったままの
に対し、立ったまま状況を見守っていたロイが
「飲め」
と言って軍で支給されている見慣れた形の水筒を彼に差し出した。
一瞬、何をしていいかわからなかった
がボーっとしていると
「ただの水だ。飲め」
というロイの言葉にお礼を言って受け取り、慣れた手つきで蓋を開けてそのまま口に運ぶ。
そしてこの不器用な気遣いに、目の前に立っている人物は本物らしいと
は思った。
ではさっきの偽物は、一体誰をなぞったモノだったのだろう。少し気になったが言える内容ではないなと、
は一瞬だけ、空けられた水筒の口を見つめながら判断した。
一度口をつけると、自覚がないながらも相当喉が渇いていたようで、結局
は中身を一気に全部飲み干してしまった。
やがて水筒から口を放して一息つき、彼の心に余裕ができたのを見計らってロイが聞いた。
「こんなところで一体何をしていたんだ」
ロイは疑問系で聞いたつもりだったが、その声音は心配の色が色濃く出ており疑問の体をなしていなかった。
どちらかというと、心配しつつも詰問するかのような質問に
は首を振って
「なんでもありません」
と答えた。
だがそんな言葉など欠片も信用していないロイが再度問いかける。
「そんな青い顔で答えられても説得力はない。もう一度言う。何があった」
今度は声音から心配の一切を抜いており、有無を言わせない。
そんなロイの言葉に、
は自分を落ち着かせるため持っていた水筒を膝に置き、両手で持って一息つくと
「昔の、夢を見てました」
と言って誤魔化した。
ただ『あれは認識されないほどの極々短い時間の中で起こった現実なのだ』という、言わない事実があるだけで。
だから話は夢を見ていたで通るはずだと、
はこれまでの経験から知っている。
「夢?」
「はい。昔からよく見る夢の一つや二つ。大佐にだってあるでしょう?」
「確かにあるが、うなされる様な物はない」
言外に悪夢だったんだろう? という言葉を含めてロイが答える。
その言葉に
は、確かにこの人ならば綺麗なお姉さんの夢しか見なさそうだ、ということが簡単に想像できて苦笑いで答えた。
「さて、戻るか」
曇天の空が太陽の光を失って更に暗くなり、風が吹いてきたこの人気の無い高台の状況を指してロイが話を戻した。
それに
は頷くだけで返事はせず、気になっていたもう一つを質問をした。
「大佐は、どうしてココが?」
先ほどの偽物からは明確な答えが返ってこなかった理由を聞く、と同時に自分が彼を引きとめた理由も察してくれるだろうと
は踏む。
やがて踵を返しかけたロイの足が止まり、自然を装って振り返って答えた。
「ん? 人の情報網を見くびらないでもらおう。伊達にここの司令をしてるわけではない」
「そうですか」
ほんの僅かな緊張感がその場を微妙な空気にさせ、ザワリとした緊張が二人の間を走り、コートが吹いてきた風に乗ってゆらりと揺れた。
そして、先に沈黙を破ったのはロイの方だった。
「なぁ
」
「はい」
「先程から誰かに見られているような気がしているんだが。これは私の気のせいかね?」
「奇遇ですね、俺もです」
それが警戒対象である傷の男なのかは分からないが、誰かがいることだけは分かる。
それがジッとこちらを伺っているのも……
「そうか」
ロイの手がゆっくりと動いて練成陣が描かれた手袋を嵌め、周囲に素早く気を配る。
そろそろ、ソレが来そうな気配だった。
緊張が解ける一瞬の張り詰めた空気を前にしても動じることのないロイが
「
。来るぞ」
と小さくそう告げた直後。
飛んできた何かを二人とも避ける。
バッ!
立っていたロイは素早くかがみ込むと同時に地面におかしなものが無いか一瞬で確かめた後、物体が飛んできた方向へと顔を向ける。
はそのままベンチから転がり落ちて、地面に手をつけてすぐさま警戒すると同時にチラリと見えた敵に位置を、ロイに向けて叫んだ。
「大佐、木の上!!」
飛んできた物体とは正反対の位置に植えられていた一本の木の上に存在していた影。
そこにロイの放った炎が飛んだ。
ボッ!
炎は空気を伝い切り裂いて相手に届く、はずだった。
まさかファーストコンタクトで居場所を見抜かれるとは思っていなかったのだろう。
木の上にいた人影が、迫る炎に慌てたように見えた。だが……ッ!?
「「消えた?!」」
二人の声が重なった。
その直後、地面に手をつけた状態で消えた影がどこに行ったのか探っていた
の眼前が真っ黒になり、その一瞬のスキを突いた相手の蹴りが
の腹に入る。
「ガハッ」
――狙いは奴かッ
ロイの視界の中で、軍で鍛えているはずの
の体が少し宙に浮いた。
「
!!」
彼は叫び、炎を飛ばそうとする。
先ほどは様子見もあったため手加減したが、今度は消し炭にするつもりだった。
敵と認識した者に容赦をする必要は無い。
――間に合うか?!
だが指先に灯った炎が相手に届くまでには時間が掛る。
人影は実体を伴い、まさに
の首めがけて何かが振り下ろされようとしていた。
ドッドンッ!
突然響いた後ろからの銃声に、男だと思われる黒いコートを着た影がユラリと揺れて倒れていく。
やがてロイの後ろから
「どいてください大佐!」
と、女性の声が響いた。
彼女は更に弾を相手に撃ち込んでいく。
長い金髪を髪留めでまとめた銃撃の才ある女性、リザ・ホークアイ中尉。
敵と定めた黒いコート姿の男らしき人物に向けて撃った彼女の弾丸は、まるで吸い込まれるように全弾命中した。これだけ撃てば、誰もが即死か良くて瀕死の状態になるのは必至だった。
だが男は倒れなかった。
まるで異常な再生能力があるかのように、膝を折り揺らぎはするものの一向に倒れない。
普通の人間ならばもう死んでいてもおかしくないほどの弾丸を受けても、黒コートの男は倒れなかった。
そんな異様な光景を前に、中尉の銃を撃つ手が止まる。
ロイもまた、信じられないといった目でその光景を見ていた。
やがて男が振り返り、ニヤリと笑ったその顔に二人が凍りついた。
その隙に男は、倒れている
を乱暴に肩に担いで、空いているもう一方の腕で空間に陣を描く。
すると、どんな原理かは知らないが、男は、自分の前にできた闇の空間へ足を踏み入れ、消えていった。