ゆっくり彼が街を歩く。
端から見れば、その姿はいつもと変らないように見える。
だがその中身は相当に荒れていた。
先ほど使いかけた力の影響でざわついていて、彼はそれを抑えるのに必死だった。
しかしそんな彼の事情とは関係なしに、周囲の環境は動いていく。
「
、丁度いいところに来たな。たった今、この前言ってた試作のパンが焼けたんだ。あれは俺の自慢の味になりそうなんだよ。どうだい、試食していかないか?」
その声に顔を上げると、いつも使うパン屋の前まで無意識で歩いて来たらしく、店の中から何も付いてない手でドアを開けた全体的に筋肉が付いた体格も人もいい店主の言葉に、なんとか作った笑顔で断りの言葉を告げる。
「ごめんなさい。今、少し急いでいるので、また今度にお願いします」
いつもならここで『ありがとう』と答えて差し出された試作のパンを貰って感想を言ったりするのだが、今日ばかりは、いや、今ばかりはそれも無理なことだった。
一方の店主の方はというと
が断ったことに対して何か言うことはなく、むしろ「忙しいのにすまないねぇ」と謝ってくる。
しかし顔色の悪さは誤魔化せなかったらしく、それに気づいた店主が心配そうに寄ってくる。
「どうしたんだ。顔色悪いぞ」
肩に置こうとした店主の手を避けるようにして体をずらすと、無理に笑顔を作って
「なんでもありませんよ。それより店主。手に小麦粉が付いてますよ?」
「お、こりゃいけねぇ。あんたの制服を汚すわけにはいかねぇからな」
小麦が付いていることを指摘した
の言葉に自分の手を見た店主が笑いながら謝ると、白にベージュ色が混じりだした年季の入ったエプロンで二度三度軽くはたき落とす。
その隙に
は
「それじゃ、急いでいますので」
と告げて、彼の元から足早に去った。
なんの耐性もない人間を、今の自分に触れさせるわけにはいかない。
今の自分に触れれば、あの気の良い店主はきっと無事ではすまないということが分かっているから。
「あぁ。仕事、張れよ!」
の後姿に声を掛けた店主が店のドアに手を伸ばしたとき、ふとした疑問が彼の頭の中をよぎった。
――あれ? 俺、手洗わなかったか?
と。
しかし店にやってきたお客の声によってそんな些細な出来事はかき消され、店主は日常へと戻っていった。
そこには誰もいないと踏んで、普段だと30分も掛らない高台にあるお気に入りのベンチに向かってゆっくりと体を引きずるようにして歩いてきた
は、まるで倒れ込むように腰をおろして一息ついた。
しばらくそのままの格好で休んだ後、顔を上げて目に映った空に向かってポツリと呟く。
「空だけは、何時の時代も変らんな」
太陽が傾きつつあった昼過ぎと夕方の間の曇り空だったが、変わらない空の色に思わず感情がこみ上げる。
そこだけは、余りにも変らなさ過ぎるから。
変わるのは時代とそこにいる者たち、そして次々に進歩発展していく技術の中にあって、空だけはいつの時代も変わらずにそこにある。
暗くなっていく曇天をしばらくの間見上げていた彼は、ぼんやりと
――さてと。抑えに掛るか
顔を空に向けたまま、そっと目を閉じた。
視界が闇に閉ざされたのは一瞬のことで、その視界はすぐに光に包まれる。
やがて、そこに意識の全てが入り込んだのを確認して目を開けると、彼の目の前には重厚な扉がそびえ立っていた。
ここの人たちが人体錬成をするときに見るという『真実の扉』という名が付けられているものと同じかどうかは
は知らない。
しかし
は漠然と、自分の見ているものと彼らが見ているものは同じものなのだろうと考えている。
そして、そんな危険な扉に対して彼は躊躇うことなく腕を伸ばして開けると、更に中へと足を踏み入れた。
キィ……という重厚な音を立てて扉が開き、バタンともガシャンと聞き取れる音を立てて扉が閉まる。
と同時に、気安い声がその場全体に響いた。
「よ、
。また作動させたのかお前は。あぁ。道理で裏闇の爺さんが居なくなったなぁと思ったらそういうことだったんだな。全く困っじいさんだ」
どこからともなく響く呆れたような少年とも老年とも取れる声に
は頓着せず、自分の用件だけを告げた。
「俺のストックはまだあるだろう。渡せ」
話を聞かない振りをする
に声の主は軽く舌打ちして
「ほらよ」
と答えると同時に床にどこからともなく球体が現われて、コロコロと
の足元に向けて転がっていく。
カツンという音を立てて
の足に当たって止まったそれを拾い上げて、彼は
「ありがとう」
と感情の篭らない声で告げると、そのまま踵を返してその部屋を出て行こうとする。
その後ろから、少し真剣な声がそこに響いた。
「せいぜい暴走しないように気をつけるんだな。お前の場合、使えば使うほど死期が早まるんだから。ま、その分ここを通っていく回数も多くなるんだが……な」
「分かってるさ。そんなことは……」
答えた声は、現実を響いた。
時間にして一瞬の出来事だったかもしれない。
だが先ほどのことが夢ではないという証拠に、
の手には淡く白く光る球体が握られていた。
彼はそれを手の中でクルクル回すと球体は変形し、30センチくらいの両端が尖った棒のような細長い形状へと変化した。
やがて細長くなったその物体を地面に置くと、
はそれを足で踏みつける。
パキン
音がしたかと思ったら、光が溢れた。
光は一瞬で四散し、その直後
の体が倒れた。
自分がここに『連れてこられた』とき、沢山のものを失った換わりに、沢山のものを得た。
そうして得たものの中にあったのは、沢山の命とエネルギー。そしてその二つを合成した、一人の人間には到底耐えられないであろう、有り余る……
時間