「殺されたいのか?」
予備動作という名の警告とともに響いた彼の声は、絶対零度の冷たさを持っていた。
饒舌だったエンヴィーの言葉は止まり、代わりに流れた重く痛いほどの冷たい沈黙が部屋を覆う。
その沈黙と合わせるようにしばらく黙っていたエンヴィーだったが、自分が話している間にソファーに座っていた
にゆっくりと視線を合わせて
「……ご、ごめんよ。失言だった」
と言ったのと同時に自分の背中で流れた冷や汗と、全身に立った鳥肌に驚愕を覚えた。
――ッ?!
最初、自分が何に反応したのかエンヴィーは掴めなかった。
ただ背中を流れる冷たい汗が、体を冷やして寒気のようなものを感じた程度だと思っていた。
それが『恐怖』だと理解するのに、数秒掛かった。
何故なら今まで感じたことのない感情だったから。
――このボクが、恐怖を感じている? そんな、馬鹿な……
こんなことは今まで一度もなかった。
仲間では一番残酷な性格をしているといわれ、自分もそうであるとずっと思ってきた。
なのに今、自分の目が捉えた
をとても怖いと思う。
彼の目を見たときから、本能的な恐怖が先に立ってしょうがない。
しかも彼の目は決して黒ではないはずなのに、今は周囲の闇を吸って真っ黒に見えて正に闇の色をしていた。
否
闇よりももっと暗い、まるで光りさえも曲げてしまい吸い込まれたら二度と出てこれないようなそんな色だ。
それに気づいた瞬間、本能的な恐怖がエンヴィーを襲う。
まるで自分が暗黒の淵に立たされたかのような恐怖。
逃げ出したいと思うのに足が竦んで逃げ出せない。
そんな感覚がエンヴィーの全身を支配する。
ほんの少しでもそこから動くと、吸い寄せられて二度と出てこれない暗黒の淵。
その限界ギリギリに立たされているという感覚があるのに、
の周りの空気はさっきと全く変らない緩やかな空気が漂っている。
その矛盾にエンヴィーは更に恐怖した。
そして、自分の息が自然と浅く速くなっているのにも彼は気づかなかった。
やがて彼は唐突に悟ってしまう。
彼は自分たちとも、ましてや人間でもない存在なのだ、と。
そう気付いた瞬間、エンヴィーの意識は真っ黒になっていた。
気を失ったエンヴィーを、倒れる寸前で支えた
はホッした表情で一息つくと誰ともなしに口を開いた。
「ありがとう」
部屋に木霊する、少し気安い印象を受ける
の声。
返事はないはずだった。
ここには、気を失ったエンヴィーと
以外誰もいないはずなのだから。
だが返事は返ってきた。
まるで部屋の闇の部分にある空間そのものが発しているかのようで、それにしては陽気な声が。
『お前が力を使うのは俺の本位じゃない。それにこんなヤツにお前の力は勿体無いよ、カイリ』
最後の言葉で、小さく
が目を見開いた。
そして彼は声に答える。
「カイリ……『前』の名前か。随分と懐かしい響きだな」
そう言う
の表情は、酷く悲しい顔をしていることに闇が苦笑したようだった。
『今は元の名前の
・
使ってるんだってね。今回、記憶の戻りがちょっと早くないかい?』
闇が発するにしては陽気な声に
が頷き、答える。
「らしいね。俺も少し驚いてるよ」
だが雑談はそこで終わり、とばかりに闇が部屋の奥で揺らぎ始める。
その存在は、やるべきことが終われば直ぐ向こうに帰らなければならず、長くこの世界に存在し続けることができない。
そんな存在が何故ここに現われているのか、の訳は
が使いかけた力のせいだ。
もし彼が本当に力を使えば、恐らく一瞬で……
だからこそ闇は
に力を使わせないためにここにいるに過ぎない。
それを理解している
は、未だ支えているエンヴィーの体を急いで床に降ろし、片膝をついた格好のまま彼の周囲を錬成する。
「とりあえず、彼の時間軸ずらして記憶を消すから」
一瞬でその不思議な錬成は終わってしまった。
は錬成陣を書かなかったし、ましてや循環さえも行わなかった。
何が起こっているのかさえ、傍から見るだけではわからなかっただろう。
そんな不思議な錬成が終わったのを確認した闇が、部屋の奥から溢れてきてエンヴィーの周りをうろつき始める。
『あとはこいつの体をどっかに運べば終わりだね』
その言葉に
は頷きかけて、思いついたように闇を引き止める。
「あ、待って」
立ち上がってテーブルに置かれたカップを手に取ると、
はそのカップをエンヴィーの隣に置き
「これ、冷めちゃったけどあげるよ」
と言うと、そのカップの縁にソッと指を充ててそれを割った。
ガシャンという音を立てて割れたそれから、固定するものを失った中身が床に広がって匂いが周囲に漂い始める。
闇が、まるで不思議がるようにその床に広がった紅茶の上をくるくると回るのを見て、
が口を開いた。
「来てくれた御礼だよ。……止めてくれてありがとう」
それだけを言うと、
はそのまま部屋を出て行った。
バタン
扉が閉まった直後、部屋は一瞬の間闇に包まれる。
そしてその闇が晴れた後には、先程
が割って床をぬらしていた紅茶も、彼が時間軸をずらし記憶を消したエンヴィーの姿も跡形もなく消え去っていた。
ただ復元されたカップだけが、ポツンと床に置かれているだけだった。