結局スカーからの襲撃がないままその日は過ぎて
は、自分の身辺警護に心労を覚えながら自分の部屋を目指していた。
この『自分の部屋に帰る』にも警備がつくとのことだったが、その申し出を断って彼は一人、部屋へと歩いている。
――相手が錬金術を使う以上、普通の警護じゃ意味がないってわかってるのに……
その部屋に戻るための廊下を歩いている中で
は、自分の部屋の前に誰かがいる気配を察知して壁に背中を預けて自らの気配を消し、それが誰なのか探りを入れ警戒した。
不幸中の幸いとして、この集合住居の廊下は数歩離れてしまえば顔が分からないほど薄暗い。
こちらが気配を消してしまえば、相手は自分の位置をまず把握できない。
普段はこの上なく危ないと言われているこの住居の欠点も、こういうときは便利だった。
――例の傷の男か? の割りには襲ってくる気配はなそうだが?
警戒していた
が疑問を感じ始めたとき、その人物が小さく吐いた息と気配で自分を待ち伏せしていた相手が誰なのか知った。
安堵と同時に彼は再び足を進め、相手の顔がまだ見えない距離で
「人の部屋の前で待ち伏せですか? 大佐」
と言った。
彼の部下でお目付け役のホークアイ中尉は今頃血眼になって探しているだろうに――ご愁傷さま――そう彼女に同情の念を飛ばしたとき、大佐と呼ばれたロイ・マスタングがそんな
の心を読んだかのように答えた。
「抜け出してきたと思っているのだろうが、生憎仕事は全部済まして来ているから安心しろ」
「珍しいですね。驚きました」
言いながらロイの顔が見える位置まで歩き、彼を見る。
その瞳は雄弁に「失礼だな」と言っていたが、それには頓着せずに
は鍵を取り出し
「入りますか?」
と聞いた。
ロイは扉の前から移動し、
に場所を譲ることで答えた。
備え付けの椅子と机とランプ、そしてベットとソファセットその間に置かれた小さなテーブルが置いてある簡素な部屋に、簡易キッチンがあるだけの簡単な作りの
の部屋。
この住居は旅行者用に造られた簡易集合住宅のようなもので、
以外にも東部を訪れている旅行者達がこの住居に集まっている。
理由は他とは比べられないほど安く借りることが可能ということ。
長中期滞在ともなればホテル住まいもそう簡単にはいかない。
だからこそ、このような集合住宅があり旅行者がここに集まっているのだが、それは一般に見せている表の顔で本当の理由は外部の者は一つに集まっていてくれたほうが管理しやすいという、軍令部側の裏事情がある。
そんな住宅の一室にあって、数日前まではある程度散らかっていた荷物が一つに纏められているのは、南方へ帰るところをロイの部下に引き止められたからだろう。
その件に関しては自分の日ごろの行いの所為なのだが、ロイはあえて口にしない。
部屋に入ったロイは、一人用のソファに座って
が作ると言った紅茶を待つことにした。
「どうぞ」
差し出されたカップを持ち、一口飲んだロイが「アールグレイか」と銘柄を当てる。
だが彼は紅茶で和むためにここに来た訳ではない。
それは
も重々承知だった。
ま、言うなれば紅茶は社交辞令のようなもの。
前置きとも言うが。
その紅茶カップを終えたら、きっと本題に入るのだろうという
の予想は的中した。
しかし、それが今回の襲撃の件ではなかったことは、
にとっては意外だったが。
「お前相手に回りくどい言い方をするのもどうかと思うから短刀直入に聞く。お前、一体何を知っている」
「何……とは?」
この疑問は
にとって本当だった。
てっきり傷の男の件についての話だとばかり思っていたからだ。
まさか自分を尋ねる理由に別件があったとは
にとって予想外だった。
いや、もしかしたら心の底では気づいていたのかもしれない。
傷の男の件は公にされているから、司令部の長であるロイ・マスタングがわざわざ一人でここに来る必要はない。
ここに現れたのは大佐としてではなく、一錬金術師として、なのだろう。
となると……
「とぼけるな。お前はあの時言ったな。『等価交換』だと。あれはどういう意味だ」
疑問を投げかけているつもりでも、どこか問い詰めるようにロイは言う。
「『どう』と言われても、そのままの意味ですよ。それ以上は言えません」
「何を隠してる。お前は……」
禁忌とされている人体錬成と、
の言った等価交換から導き出されるもの。
「『賢者の石』に関係があるのか?」
だがロイは、自分で言ったその言葉を心の中で否定した。
存在するかどうかも分からない伝説級のシロモノなど、そう簡単に見つかるはずがない、と。
そして
もまた、肩を竦めて否定する。
「違いますよ。そんな伝説級な代物。どう考えたって無理な話でしょう? 」
しかし、それこそが最大のヒントだった。
戻らない時間の中にあって、今の
が言えるのはその一般的な否定くらいしかなかった。
まだそんな深いところまで自分の記憶は『戻っていない』
交錯した視線にロイは何を読み取ったか、一息軽く息を吐いて
「そうか」
と言った。
その声音は、納得も了解もしてはいなかったがどうやら理解はしたようでそれ以上ロイが何かを言うことはなかった。
沈黙が部屋に帳を下ろした頃、思いついたようにロイが口を開いた。
「そうだ。南方から書簡が届いていたぞ。向こうの大佐から『さっさと少佐を帰還させてくれ』ってな。ご苦労だった。迷惑をかけたな、
」
最後の最後で、
が東部に延滞している状況は自分の所為であると認めたロイが上着を羽織、部屋を出て行こうと踵を返す。
そのロイの背中に、声が掛った。
「大佐」
と。
その声は、普段の
・
からは考えられないほど弱弱しい声だった。
ロイはドアノブに手を掛けようとしていた手を止め、ゆっくりと
を振り返り、彼の言葉を待つ。
振り返った先にロイが見た
の表情は、いつもと変わらなかった。
しかしその声だけが、常のそれではなかった。
「今は、何も聞かないでくさだい。いつか、全部話しますから」
どこか、今にも泣きそうな弱々しい声音に反して、口元に僅かに余裕の笑みを浮かべたいつもの表情があまりにもかけ離れすぎていて、ロイは
「分かった」
としか、答えることができなかった。
パタンと静かにドアが閉まり、部屋に一人残された
はドッと疲れた出たのか、足を床に付けたままベッドに背中を預けて横になり、腕を頭の上に乗せてこれまでのことを考えていた。
――人がそこに辿りつくには、『ここ』では無理な話。だけど『ここ』だからこそ可能性がある話でもある。
エルリック兄弟に会って正直言って心が揺らいだ。
僅かな情報と時間で核心をつく言葉。
彼なら、もしかしたら自分の『忘れられたモノ』も取り返してくれるのかもしれないと予感する。
そんな自分の直観に、僅かでもいいから望みを託してみたい。
そう思えるのは、彼らからどこか自分に近しい何かを感じたからだろうか。
だがその可能性を
は自ら否定した。
『持っていかれた』時点で、自分と同じなはずがないのだ……と。
それに今更頼る先を変更するわけにもいかないしな、とも思う。
今まで『彼等』に協力してきたのは、自分に似たものが彼等しかいなかったからが理由だ。
『臨機応変に動いてくれ』と言ったのは
だが、もしかしたら自分から裏切ることになるかもしれないと、ここにきて揺らいでいる。
と言ってもお互いが互いに利用しつつされつつの関係だったため、別に裏切るという言葉は適切ではないのだが、今までの関係が他の組織や人たちより長かった分、切るのは大変そうだと
は思った。
――まぁ、切ったところで向こうは気にもしないのだろうが……な
「どーしたものかな……」
投げやり気味の独り言が部屋を満たす。
『なるようにしかならない』と言った自分。
――ほんと、なるようにしかなっていない。
その思いに重ねるようにして、部屋の中で彼以外の声が響く。
「ホンットォに
って揺らぎやすいよねぇ。ボク怒っちゃうよ?」
聞き覚えのある、からかいの声音だった。
いや、聞き覚えのあるどころじゃない。まさに響いたのは自分の声だ。
ドアは開閉されていないので空間を伝ってやって来たのだろうが、
は驚くことなくベッドに背中を預けたままその声に返事をする。
「エンヴィー、俺の声を真似しないでくれ。なんか、慣れない」
自分の声を誰かから聞くということに慣れていないため、なんだかくすぐったい気持ちになる。
そのことを伝えると、部屋の奥の暗闇がゆっくりと動く気配がした。
その暗闇から姿を現したのは、露出の多い黒色の服の着て生意気そうな顔をした黒髪を長く伸ばした少年だった。
彼の姿を見た
は、ベッドから立ち上がって先ほどロイに注いだ紅茶を淹れ直して彼に差し出した。
すると、エンヴィーと呼ばれた少年は首を振って
「分かってないなぁ。僕達はアレしか食べられないんだよ?」
と言った。
彼の言うアレが何を指すのか分かった
は「だったね」と答えて、エンヴィーに差し出した紅茶を立ったまま自分で飲んだ。
これが自分と彼らの決定的な違い。
直接できたモノと副次的な存在の違い、というものなのかもしれない。
飲みながらそう納得した
が、カップをテーブルに置いた瞬間、彼に手を捕まえられた。
疑問に思っていると手は離され、代わりにエンヴィーがテーブルに腰かける。
視線が低くなった彼の行儀の悪さを指摘することもなく、
は彼の言葉を聞いた。
「
はさ。そうやって一人で抱えるからだめなんだよ。いつもそうだよね。まぁボクたちに信用も何もないのは分かってるし、君もしてないだろう? だからさ、別に裏切りとか言ってる訳じゃない。今回のことも、鋼のボーヤには生きてもらわないと駄目だけど、君はもっと生きてもらわなきゃ。ボク知ってるよ? 君のいの……」
長い髪を鬱陶しそうに掻き分けながら調子に乗って滔々と語るエンヴィーの耳に、予備動作という名の警告が響いた。
パンッ
「殺されたいのか?」