「まさかお前が錬金術をやっていたとはな」
あの実地試験の二日後のこと。
軍事施設の中にあるオープンカフェで、ロイ・マスタングは一人の男に声をかけた。
そしてそんなロイの言葉に話し掛けられた人物はポカポカと暖かい陽気のせいだろうか、その眠たそうな目のままで読んでいた本から視線を一瞬だけロイに移して言った。
「別に秘密にしていた訳ではないですが、中佐」
そんな上官に対するものではない態度で答えるその男の名は
・
。階級は大尉。
一介の部下、に過ぎなかった。つい先日までは。
まさか自分の部下に錬金術師がいたとは先日まで予想してなかったロイにとって、この男が国家錬金術師の資格を取ることは本当に想像の範囲外だったのだ。
そして、それを寸前まで隠していた
にロイが興味を持ったのも確かだった。
今まで別段親しい訳ではなかったので、接触は少しずつ、だったが。
「まぁそうだが。何を読んでるんだ?」
「なんでもありません。ただの推理考察書です。ところで中佐。何か、用事でも?」
と、本をカバンの中に仕舞いながら
が尋ねるその声は、若干の警戒心が見て取れた。
「いや、特に用事はないよ。それより、もう二つ名はもらったのか。まだなら後日連絡があると思うが」
テーブルを挟んでイスに座りながら言うロイに、サボりだなと見当をつけたらしい
が眠たそうな視線そして何より、上官に言うべきではない声で答える。
「まだですよ」
「そうか」
話を続けようとしたロイの続きを、
は言わせなかった。
「中佐、俺は用事でここに来ただけで、今日は休暇なはずです。すみませんが、これで」
言外に「ほっといてくれ」か「あなたのサボりには付き合いません」のどちらか、あるいは両方の意味を含ませて、
が席を立つ。
その後ろから声をかけようとしたロイだったが、その背中を見て出かかった言葉が引っ込んでいくのが分かった。
代わりに聞こえてきたのは彼の
「この本が気になるのでしたら、今度お貸ししますよ」
という去り際の声。
そしてロイは、『今の彼に声をかけてははらない』
何故か、強烈にそう思っていた。
「論文を見る限りでは、次元という言葉が出ているが、それでいいのではないか」
「いや、実地の錬金術を見たが、あの現象は振動だろう」
「ならば弦、でどうだ?」
その言葉に、論文を見ながら二つ名を論議していた人間たちが顔を上げる。
「良い名ですな」と、誰かが言った。
それで決められ、後日
に届いたのは一通の書簡。
内容は、銘を与えるため本部に来いという簡潔極まりない内容だったが。
呼び出された
に付けられた二つ名。
それは正に、その現象を上手く表していた。
「
・
大尉、銘は『弦』だ」
厳かに告げられた空気を物ともせず、
が不敵な笑みを作って自分に告げられた二つ名について短く感想を述べる。
「弦ね。あまりセンスがないように感じますが。ま、いいでしょう」
おまけに大総統に対して肩をすくめて、一見すると不敬極まりない態度と言葉だったがブラッドレイはそれを気にした様子もなく問いかけた。
「不服か?」
なら今からでも変えようかとでも言わんばかりの提案に対して「そーでもありません。いいところ突いてらっしゃる」と答えた
に満足したのか、笑顔になり
「そうか」
と答えた。
そんな何気ない会話が二人の間で交わされている。
傍から見れば何もないように見えるのに、何故かそこに緊張感が見て取れてロイは自然と手のひらに汗がにじみ出るのを感じていた。
――何だこの緊張感は。二人は知り合いか?
だがその疑問に答える者は誰もなく、気が付けば無事に謁見は終了したらしい
が隣に立っていて不思議な物を見る目でロイを見ていた。
「終わったのか」
動揺を隠すため、ロイは
が何か言葉を発する前に先手を打つ。
緊張は解けたものの、その声に若干の動揺が滲んでいたが、彼がそれに気づくことはなかった。
「はい。といっても、銀時計と銘をもらうだけなので、そんなに時間が掛かるわけでもないですし」
と、肩をすくめて言う
にロイは一息小さく息を吐くと、自分のときもそんなに時間は掛からなかったなと思い出しながら
「そうだな。ところで、この後少し付き合わないか。旨い飯を出すところがあるんだ。丁度昼も近いし、このまま行こ……」
と言いながら銘が下される部屋からロイが外に出た時、チャキリというドアノブの音とは違う別の金属の音が聞こえて言葉が自然と止まる。と同時に、ロイの頬には冷たい金属の端が当たっていた。それが何かと見当をつけると同時に
「だめですよ中佐。お戻りください」
という言葉で、ロイは自分の頬に銃を当てているのが誰なのか理解した。
そんな中、状況に頓着せず
がその人に向けて口を開く。
「ども、ホークアイ少尉」
「あら
大尉。ご無沙汰しております」
声がロイに対するときとは打って変わって上官に対する敬意がこもった声音で話すのは、金髪の長い髪を邪魔にならぬようかき上げクリップで一つにまとめたリザ・ホークアイ少尉だ。
だが、自らの上官であるロイに対しては氷よりも冷たい態度で言葉を告げる。
「二日前、あなたが仕事を放り出したせいで片付かない仕事がまだまだ沢山残っています。その片付けをしてからなら、お食事でもデートでも何でもどうぞ」
と、マダマダという部分を強調して言うとリザは笑顔で
に向き直り、
「それでは
大尉。失礼します」
と、いつの間に銃を収めたのか右手で敬礼すると、嫌がるロイを半ば引きずって去っていく。
「こら
! 私を助けんか。こらぁぁぁ!!!」
ロイの断末魔に中尉の淡々とした表情と態度、その対比がなんだか面白くて
「自業自得ですよ。中佐」
と呆れた表情を見せながら呟いた
だったが、それもいつもの光景だと思い直して、さて昼は何にしようかと考えながらゆっくりと歩いていった。
こうして彼
・
の、国家錬金術師としての第一歩がここから始まったのだ。
そして、いつも思うのだ。
『最初』は、大体の確率で平穏なのだ、と。
昇任試験と戦争を経て
は大尉から少佐に、そしてロイ・マスタングも中佐から大佐、リザもまた少尉から中尉に上がり、配属もそれぞれロイとリザの二人は東の司令部へ、そして
が南に配属されてかなり経った頃だった。
東部司令部に出向の命令が下ったのは。
「東の司令部に?」
「そうだ。この書類を届けてもらいたい」
そういって机に置かれた封筒を見て、
が呆れた声で答える。
「そんなの伝令部にやらせればいいでしょう。第一あそこに行くと脱走魔の捜索に借り出されて中々帰してもらえなくてですね」
という
の泣き言は見事に封殺され、結局こうなる訳、だ。
と遠くに誰かの声を聞きながら
がまどろみの中思っていたら、次の瞬間にはたたき起こされた。
「
少佐、ちょっと起きてくれ!」
「ん、なにハボック少尉、また??」
仮眠室で眠っていた
の目の前のカーテンがガバっという音を立てたかと思うくらいの勢いで開けられ、入ってきた光に眼を細めながらも自分を起こした声の主の姿を確認する。
聞けばマスタング大佐がまた逃げ出したとのこと。
あの中尉がついてれば逃げ出せないはずなのに、その包囲網をかいくぐるとは、やるな大佐。
そんなふざけたことを思いながら、沈む目蓋を必死に開けて
は廊下をひた走る。
と同時に、今彼がどこにいるのかの見当をつけ、ハボックが走ろうとしていた道を途中で曲がり、そこに向かっていった。
「こんなところに居たのでは誰も気付きませんね。大佐」
その人は、夜風も涼しい屋上のテラスに座ってどこを見るともなしに夜空を見ていた。今ごろ下のほうでは他の部下が血眼になって目の前の人物を探しているのだろう。
だが目の前の男はそれを気にした様子もなく、我関せずを通している。
「ん? まぁな。それにしても、私の居場所がすぐにわかるのはお前くらいなものだよ
」
と、少し
に視線を移しながらロイが言う。
「どうされましたか?」
後ろに立つのも何だと思い、隣に移動し腰を下ろして問うと予想外な答えが返って来た。
「少し眠い」
「それだけですか?」
「そうだ」
そう言いながら欠伸をするのを隠さないロイだったが
「だからなんだというのですか?」
と次に問いかけてきた言葉は
の放ったものではない。
それはとても冷たく、ブリザード吹き荒れる絶対零度の声だった。
その証拠に、ロイの肩が彼の動揺を表すかのようにピクリと揺れた。
「仕事がまだ残っています。しかも今日中に仕上げなければならない仕事が山のように。仕事場にお戻りください。マスタング大佐」
が恐る恐る振り返ると、手に銃を構え狙いをロイに定めているホークアイ中尉の姿があった。
流石に本気だと思ったのか、ロイが思いっきり顔を引きつらせて言い訳を言おうとすると、
とロイの僅かな隙間に弾丸が当たる。
――こえぇぇぇぇぇ!
と思うと同時に流石射撃の腕は超一流と認めて、
はロイを彼女に引き渡した。
結局、リザに仕事場へ半ば引きずられるようにして戻らされた大佐を見送った後、再び仮眠室へと足を運んだ
に
「眠っていたところ悪かったですね。
少佐。」
と彼を起こした主から声が掛った。
「いいよ。いつものことだから」
と答えると、ハボックは
「お陰で前よりも早く大佐を見つけることができます。本当に感謝します。では」
と頭を下げて仕事に戻っていった。
『どうしてイシュヴァールの戦争に錬金術師が借り出されなきゃ駄目なんだよ』
軍の狗として、時には駒として戦争に借り出される国家錬金術師。
あの戦争が始まるとき既に理論は完成していたのだが資格はとらなかった。
自分の好きなこと、自分がやらなければならないこと、良かれと思って組み立ててきた理論が殺人の道具に使われたくなかったから。
ただの軍人としてだったから、自分の中でなんとか正気が守られたように思う。
しかし……
「中佐。あなたは、その矛盾をどうやって解決したんですか?」
いつかした質問。
返ってきた答えを、今ではよく思い出せない。
そんな、少し昔を思い出していた
に誰かの会話が耳に入ってきた。
「襲撃、ですか?」
「そうだ。だが心配はいらない。鋼のが乗っている」
そういって不敵な笑みで笑う大佐に
は、その『鋼の』という錬金術師に対して、ほんの僅かに興味を持った。