目が覚めて、エアハルトの肩に腕を回したままぐっすり眠っているラリーを起こさないように立ち上がると、彼は音を立てずに背伸びをし、まだ眠りの中にいる彼に毛布をかけた。
その際、布団の中の人間が起きていたのに気づいて視線を向け、
『朝飯いくか』
と指を使って言うと、布団の中にいた人間もまた、極力音を立てずにベッドから起き上がって指先で返事を返す。
『はい。あの、ラリーさんはこのままでいいんですか?』
『構わん』
『了解』
と、指の動きだけで二人は会話していく。
この指での会話と無線を使った通信のときは、普段単語しか話さないカイが饒舌になる。
最近では冗談まで言っているらしく、先日カイと飛んだヴァイパー7が驚いていた。
『おはようございます、師匠』
『おはよう』
珍しく、長い付き合いで分かる笑顔らしき表情で手信号での会話を続けるカイに不機嫌な視線を向けてエアハルトが問いかける。
『どうした』
『いえ』
『変な奴』
そんなエアハルトの返事にムッとしたのか、カイが指を使って
『ただ、アリスとラリーさんって、本当に信頼し合ってるんだなぁって思いまして』
「……お前」
ここで本名を言ってくる辺り、カイも相当イイ性格をしているとエアハルトは思う。
この辺りは、あのルーア・ルッソーニに似てきたのかもしれないと、半ばうんざりしながら彼はカイを睨むのをやめ、部屋のドアを静かに閉めた。
一週間前に辞令が降り、本日早朝付で本部付きになったジーン・パスカルは、着任早々ルッソーニに呼び止められていた。
「あぁ、丁度良かった。ジーン、ちょっと頼まれてくれないか?」
そう言いわれて手渡されたのは、バインダーに挟まれた飛行計画書だった。
「これを食堂にいるハーミット少佐に渡してほしいんだ」
と。
これから行われる作戦のために彼が復帰したのは聞いていたが、なんと今日の午後からサンサルバシオンの飛行場で訓練を再開させるらしいと聞いて、入れ違いだなと内心悔しく思った。
が、少し目に入ったその書類に書かれてあった内容を見てジーンは目をむいた。
「あの、司令……」
「なんだ?」
「これ、本当にやるんですか?」
「あぁそれか? まーラリー・フォルクならできるんじゃないか?」
投げかけた質問は軽く受け流されてしまったが、どうやらあの訓練を受ける人物の名前はラリー・フォルクという名前らしい。
が、いきなりラプターを使っての訓練というのは、どう考えてもあんまりじゃないだろうか、というのがジーンの感想だった。
しかしそれを言う前に司令は「じゃ、よろしく」と言ってさっさとジーンの前から去ってしまい、残されたジーンは、どうしても浮き足立つ心と同時に竦んでしまうという複雑な心境に陥った自分を叱咤させ、彼がいるという食堂へと足を向けた。
「メビウス1。ちょっと、いいですか」
食堂のいつのも場所で朝飯を食っていると、まだ20前後だろうかの少年が緊張と遠慮が混じった消え入りそうな声と共に簡単な冊子を持って現われた。
「ん?」
答えて「これにサインをと、司令が」と差し出された冊子を受け取ったエアハルトはパラパラとめくって呆れた顔を作った。
「これ本物か?」
書かれてあったのはいつもと変わらぬ飛行計画書だが、内容は簡単な飛行しかやってこなかったであろう対象人物にとって相当厳しい内容だった。
「あ、はい。司令に手渡されましたので、間違いないです」
「あの野郎……本気でできると思ってるのか?」
と、この計画書を書いたここにはいない人物を思い、エアハルトが思いっきり不機嫌な顔になる。
目の前に座るメビウス1の雰囲気があまりよろしくない方向へ変わったことに、ジーンと呼ばれた少年の顔が涙目になった。
「そ、そこまでは知りませんが。ですがラリー・フォルクさんという人ならそれでも良いんじゃない? と、その、軽く……」
遠慮がちで掛けられた声の後半は消え入りそうだった。
それをカイが
「大丈夫」
とフォローするが、もはやジーンの耳には届いていない。
今でこそISAFに拾われ、訓練生を経て新人少尉になっているジーンだが、あの大陸戦争末期において一度ISAFと敵対した人間である。
一人で戦争を終わらせたと言われ、一度は敵対した相手でありながら今はこうして話しかけるのも緊張することになるとは、拾われたときは思っても見なかったのだが。
考え方が真逆に変わってしまった今の自分を、あの頃の自分が見たらさぞかし笑うだろうなと、顔を青くしながらジーンは半ば現実逃避の形で拾われた当時を思い返していた。
あの時、自分が落下したところは既にISAFの陸軍に囲まれていた。
このままだと死刑か終身刑、よくて懲役何年かは分からないが、それでも重くなるだろうことは重々承知していた。
それだけのことをしでかした自覚はあるし、何より裁く側のISAFは、いや、中央ユージア連合は反抗するものには容赦がない。
それはユージア大陸のほぼ全土の国がそうだったからわかる。
だがISAFに運ばれた生き残った自分たちを待っていたのは刑務所でも裁判所でもなく、ISAFの宿舎だった。
『そいつ等の面倒は俺が見る。それが出来なければ俺は今すぐにでもここを抜けるぞ』
と、神にも等しい彼が敵対したジーンたちアクィラ隊の生き残りに再訓練するこを宣言したのだ。
そのことに一番驚いたのは、何を隠そう言われた本人たちだった。
当然ISAF上層部は反対した。
敵だったものを引き入れる理由も余裕もない、と。
それは余りにも正論すぎていて、ジーンも思わず心の中で頷いていた。
だがあの当時、メビウス1が抜ければISAFは瓦解するとまで言わしめた彼に反対できるものは誰もおらず、彼は大した理由も告げずに半ば強引に押し通した。
辞めれば刑務所行き、というたったそれだけの条件で。
最初は憎かった。
ISAFの英雄と言われ、リボンの死神と恐れられ、あの人を手にかけた人間が。
敵を傍に置くなんて、寝首をかいてくださいと言ってるようなものだと仲間同士で話し合った。
だが彼はその悉くを跳ね除けた。
何度も空で落とそうとしたが、彼は赤子の手を捻るように自分たちを翻弄して絶対に落ちなかった。
それではと、殺意を持って部屋に突撃を決めた夜。
『で、どこの誰を襲うって?』
そう言って廊下で待ち伏せをしていることもあった。
地上でも空でも襲撃が失敗続きだったある日、扉の開いた格納庫の前で彼が司令と話しているのをジーンは聞いた。
「いいのか? アレ」
「何がだ」
「とぼけるな。お前が引き取った彼らのことだ。お陰でお前の周辺警護が大変だ」
襲撃事件があってから、ジーンたちはそれぞれ引き離され個室を与えられた。
同室にすると相談しあって襲撃する、というのが理由だし実際そうだったから、警護が大変というならば確かにそうなのだろう。
だが彼は
「そりゃどうも」
と軽く答えるだけで司令の苦情を意に返さず、ただ黙って空を見上げていた。
そんな彼に、司令が言葉を続ける。
「俺はもう少し彼らの中から脱落者が出るのかと思ったが、中々どうして。あの訓練内容によく食らい付いてるもんだと。よく根を上げないものだと最近では感心すら覚えるよ」
「辞めればあいつ等を裁きたくてうずうずしてる奴等のところに飛び込むことになるんだ。簡単には辞めねぇさ」
「お前がそこまでする理由はなんだ? 罪滅ぼしか? 『彼』への」
「さぁな」
その、『さぁな』と答えたときのメビウス1の顔が、何故かジーンの心に深く残った。
そしてこのときの『彼』が、実は尊敬する黄色の13ことエーリッヒ・クリンスマンを指すのではない、ということをジーンが知るのは、もっとずっと後のことである。
しかしそのときのジーンには、自分の尊敬してきたあの人のことだとしか思えず
(殺したくせに!)
そう反発して踵を返そうとしたとき、司令が納得していない様子で再度問いかけた。
「大方『彼』が鍛えただけあって腕は確かだし、鈍らせるのはもったいない。そう判断したんだろ?」
と。
これにはジーンも驚いた。
しかし彼はそれには答えず、話しを逸らした。
「あの男は潔すぎた。もう少しくらい足掻けばよかったものを……」
「誇りに生きる人間は、いたって潔いものさ」
「俺には分からんな」
「だが理解はしてるんだろ?」
「……まぁな」
少し間をおいてそう答えたメビウス1は、ただジッと、あの人が消えた空を見上げ続けていた。
それからのジーンは、誇りを持って戦ったあの人に対して足掻けば良かったのにと言った彼を、『メビウス1』としてではなく『エアハルト・ハーミット』という一人の人間としてよく観察するようになった。
それで分かったのは、お金に関してとてもシビアだが、あの冷静沈着な飛行を行う人物と同一などとは考えられないくらい性格は大雑把で、おまけに口は汚く基地司令であるルッソーニ大佐を嫌っていること。
そんな彼の隣には常にカイ・マキノ・スタンポート少尉やスカイアイことクロード・ハスティ中佐がいること。
そして本当は陸軍兵士ではないのかと噂されている屈強な面子がそろっているオメガ隊を始め、ISAFの面々が付かず離れずで傍にいるということだった。
性格はまるで正反対であるにも関わらず、あの人と似たような雰囲気を感じ取ったジーンはいつの間にか反抗するのをやめていた。
知れば知るほど不思議な魅力に引き込まれている自分を自覚してからは、あの人への気持ちとは違うが、尊敬に近い感情を抱くようになっていた。
確かにあの人も言っていたではないか。
『敵であれ、敬意を表せる奴がいる』と。
自分の力があの人に遠く及ばないのは分かっている。
だけどあの人は、確かにメビウス1に敬意を持っていた。
敵だとしても、そこには誇りがあった。
そして敵であったメビウス1もまた、そんなあの人の誇りを理解していると言った。
そんな両者の思いに触れてジーンは、メビウス1ことエアハルト・ハーミットが何故自分たちを引き取ったのか分かったような気がした。
だからだろうか。
あの最終訓練のとき、実弾を持って飛びながらも結局ジーンは一発も撃てなかった。
ジーンだけではない。
あの訓練に最後まで残った仲間は誰一人として彼を撃たなかった。
そしてその残った仲間だけが今こうして、かつては敵だったISAFで新生アクィラ隊として飛んでいる。
そんなジーンの現実逃避を知ってか知らずか、目の前に座る渡された書類に目を通したまま不機嫌な表情を崩さない復帰した英雄は、やはり不機嫌な顔のまま手を差し出し、ジーンに赤ペンを要求した。
「ジーン」
「は、はい!」
「赤ペン」
「はッはいィ!」
答えた声は完全に裏返っていたが、目の前に座る不機嫌な英雄は意に返さない。
そして、周囲から好奇な目で見られていることに気づいたジーンは更に狼狽する。
「大丈夫?」
というカイの声も耳に入っていなかった。
やがてその訂正された書類を見たカイは、あまりにも自然にかつ当然のごとく自分を巻き込むエアハルトをスルーして
――俺が後ろはいいとして。師匠は『せめて』と思ったみたいだけど、これも相当な鬼だよね。あ、元から鬼神か。
と思ったという。
朝飯も食べ終わり、部屋に帰る道すがらエアハルトが思い出したように言った。
「そういえば、ラリーがお前の部屋に行きたがってたな」
と。
それに対するカイの返事は
「あの人」
という単語だけだった。
それに対していつもは端折るなと突っ込みを入れるエアハルトが
「大方その件になるだろうが、イヤなら無理に言わなくていいんだぞ。アレだって、俺が……」
と、珍しくカイを叱ることなく話を続けようとした。
そんなエアハルトに対してカイが小さく首を振って答えると、彼はそれ以上何も言わず、ただ黙って部屋に足を進めるだけだった。
「大丈夫か?」
ぐったりと横になっているラリーに上から声が掛かった。
慌てて視線を向けると、いつの間に下りてきていたのか、四対一の対戦を制したエアハルトがラリーを覗き込んでいた。
「あ、あぁ……ところでサ、ファイ」
呼び慣れないが仕方がない。慣れないから名前の呼びかけが後回しになってしまうのは仕方ない。
仕方ないことだらけだが、ここは慣れだ、慣れ。
そう自分に言い聞かせてラリーは話に入る。
「この、訓練内容を書いたのは……誰だ」
その声には、非常に恨めしい何かが篭っていた。
妙な沈黙が降りた。
そしてラリーがその答えを確信するより早く、近くにいたカイがボソリと
「師匠」
と短く答えた。
その後のエアハルト・ハーミットことメビウス1の様子は、後々のサンサルバシオン航空基地で語り草となっているので、基地職員に聞くと微笑みながら詳しく話してくれるとか、くれないとか。